2023 Books(エッセイ・学術・ノンフィクション)

 この2年ほどは小説を読むことが増えたが、大学時代からしばらくはノンフィクションに触れることが多かった。専攻が社会学だったので、レポートや論文のための文献として学術書を読むことも結構あったと思う。エッセイももともと好きで、絵本作家や歌人のエッセイなどを(書き手の本業であるところの絵本や歌集以上に)よく読んでいた。

 エッセイは引き続き折に触れて読んでいるけれど、学術書を読むことは社会人になってすっかり減ったと思う。まとまった時間を作って腰を据えて読むのが、やっぱりスケジュール的にも体力的にも難しいところがある。それでもしっかり知りたい分野というのはときどき出てくるもので、そういうときにちくま学芸や岩波、講談社学術あたりの文庫は非常にありがたい存在だった。本当はハードカバーにももうちょっと触れたい。

 

藤本和子イリノイ遠景近景』ちくま文庫

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 米文学の翻訳家・藤本和子による「住処」を主題としたエッセイ集。同じく翻訳者である岸本佐知子さんの解説には「藤本さんの『聞く人』としての本領はここでもいかんなく発揮され……」とある。

 魅力ある文章を書く人とはすぐれた書き手であると同時に(あるいは以前に)すぐれた聞き手である、というのは確かだと思う。さらにいえば藤本さんの場合、聞く力もさることながら、話し手の居る場所に行き、その空気や感覚を知ろうとする力も非常に長けているのではないかと思う。「居る力」とでも言えばいいだろうか。聞いたことを真摯に受けとめ、過剰に褒めあげず(もちろん腐しもせず)丁寧に書き起こすこと。言葉にすればシンプルにできそうなものだが、なかなか簡単にできることではない。

 『葬儀館そしてアイダ/イザベル』、『ベルリンあるいは悪い夢』の2篇は特に深い感銘を受けた。

 

●ミシェル・ザウナー 雨海弘美『Hマートで泣きながら』集英社

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 去年の秋口、大森のあんず文庫さんに本を買いに行ったら「ミシェル・ザウナーの翻訳が出るそうだ」と教えていただき、ずっと楽しみにしていた1冊。シンプルにいい本だった。

 文章が上手い。話と話のつなぎ方、形容詞の使い方。奇を衒うでもなく平坦に過ぎるでもなく、それらのバランスのちょうどいいところをついている。

 母去りし後、ミシェルが動画を見ながらキムチをつくる場面がとても印象的だ。母と彼女をつなぐ料理を一から作り上げていく営為は、大きな喪失と向き合うために必要なことでもあったのだろう。

「キムチの嫌いな人に恋しちゃだめよ。キムチのにおいは毛穴から入りこみ、あなたの体に染みついて離れないんだから(pp.279-280)」

 

青弓社編集部編『『明るい部屋』の秘密』青弓社

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 読みやすいんだか難解なんだかよくわからない写真論の「名著」、ロラン・バルトの『明るい部屋』を何人かの研究者が各自の視点で読み解いた小論集。いろいろな読み方があるんだな……というのがざっくりとした正直な感想。

 1回原作を読んでわかった気になっていた部分がちょっと違ったり、うろ覚えになっていた概念(「ストゥディウム」と「プンクトゥム」)を復習できるといった点においてはシンプルに役に立った。

 全体を通しては、松本健太郎氏による「言語と写真」(pp212-232)が面白かった。バルト記号学では、あらゆる非言語的な記号体系においてもその存在において言語の介在を見出す「言語中心主義」が顕著だとしつつも、バルト自身が(言語の介在する)イメージに対する抵抗を表明しているのだった(pp.216-217、「形容詞を与えあう関係は、イメージの側、支配と死の側に属する」)。写真から得た印象を言葉を使わずに“感じる”というのは、たしかに難しい。

 

●マイケル・ポランニー 高橋勇夫『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫

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 言語の背後にあって言語化されない知、「暗黙知」についての論考。人文科学と自然科学をクロスオーバーする知性の持ち主によって書かれた高度な文章、という感があり、当然ながら一読しただけで理解しきることは難しいものの、自分の理解できる範囲内でもかなり面白いと思える箇所があった。

 松岡正剛氏の「千夜千冊」に同書の解説が載っており、これがかなり助けになった(https://1000ya.isis.ne.jp/1042.html)。私自身ちょっと勘違いしていたことなのだが、「暗黙知」とは例えば歴戦のラーメン職人がタイマーを見ずに完璧な硬さの面を茹で上げる、みたいないわゆる第六感的な知のことではなく、「科学的な発見や創造的な仕事の作用に出入りした知」を指すと松岡氏はまとめる。あくまで、言語的に説明できる部分との密接な相関はあると。特に面白いと感じたのは、「ある世代から次の世代への知識の伝達は、主として暗黙的なものである」という部分(p.103、詳細は省く)。いずれ再読したい本に追加。

 

Pippo編著『人間に生れてしまったけれど 新美南吉の詩を歩く』かもがわ出版

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 国語の教科書に載っている「ごんぎつね」の作者、新美南吉の足跡を作品とともに辿る1冊。特に詩人としての新美南吉にスポットを当てている。

 センチメンタルな印象を与える表題は南吉の「墓碑銘」という詩の引用。この本の主題と新美南吉という人物を表現するのに非常に重要なキーワードになっている。「墓碑銘」は、なぜか人間に生れてきてしまった鳥が、人間世界の過酷さに耐えられず自ら生の世界を離れてゆくさまが描かれた詩である。

「厳しい生に耐えかね、自らの命を絶ったこの鳥には、南吉自身が投影されている面はありますが、南吉との決定的な違いがあります。それは、南吉は自らの生を諦めなかった。けっして手放さなかった、ということです」(p.5「はじめに」)

 その生がいかなるものだったかは、本編にて紐解かれていく。

 収録されている南吉の詩を読んでいくと、自然の中での日々の営みや、小さな生物への真摯なまなざしが確認できる(「ごんぎつね」もそうだったろう)。

 

●島田潤一郎『電車のなかで本を読む』青春出版社

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 「わたしたちには、本が必要だ」。帯に記された一文にふかく頷く。「ひとり出版社」として本をつくる(そして売る)ことを生業とする筆者が、本を「読む」ことに向き合って綴ったエッセイ集。一編一編のエッセイには1冊の本が紐づけられており、それらを調べてみるのもおもしろい。

 この本の興味深いところは、単なる読書礼賛本に終始しないところである。いきなり「おわりに」からの引用になってしまうけれども、島田さんは本書について「すべての文章は本を読む習慣のない、高知の親戚に向けて書かれています」(p.194)「ほんとうに豊かなものは、言葉のない世界にあるのではないか、とも思います」(p.195)とも語っている。私自身は読書が好きだけれど、特に後の一文に関しては強い共感を覚える(最近は旅が好きだ)。

 折に触れてまた読みたいのは第3章「こどもと本」。私には子どもがいないが、ゆえに惹きこまれ、自分の知らない世界を見せてもらった気分になる。というか、これこそが読書の醍醐味なのではないか。

 

宮地尚子『傷を愛せるか増補新版』ちくま文庫

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 トラウマ研究やジェンダーセクシュアリティの研究に従事する筆者のエッセイ集。タイトルにあるように精神的な「傷」を受容するということについて語っている。

 印象的だったのはp.26、「水の中」。ダイビング中にマウスピースを離してしまった筆者が生死の境を彷徨った経験が書かれている。そのとき、生命維持装置を失った状態で水面に向かおうとしていたときに感じていたのは恐怖や死への不安ではなく、「喜び」あるいは「解放感」であったという(決して「死にたかったわけではない」という補足がある。いわゆる臨死体験の一環としてそういった感覚が生まれることがあるのだろう)。

 全編をとおして、虚飾のないストレートな文章であると感じた。それはときに、筆者自身の属性、すなわち「教授のうえに医者で、ハーバード大学に留学経験があって博士号ももっていて、本もいくつか出していて(中略)しかもオンナで……(p.76)」という側面がダイレクトに顔を出すものでもある。しかし、この本に於いてその文体は必要なものなのだろうと思う。

 

●季刊『銀花』編集部編『"手"をめぐる四百字』文化出版局

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 作家や写真家、芸人、噺家が、「手」というテーマに沿って400字の原稿を寄せるという企画。実際に400字詰めの原稿用紙に自筆したものをスキャンして収録するという面白い仕立てになっている。個人的に人の手書きの文字を見ることが好きなので、じっくりと、しかし一気に読み通してしまった。

 字の形でいうと、柳美里さんの字と久世光彦さんの字が好きだった。スラリとした右肩上がりで、ときに字と字をつないで流れるように筆記に憧れる。

 言語、殊に文字というものは基本的に右利き用にできている。漢字の書き順や英字の筆記体は、右手で書いたときに合理的に、美しく書けるようにうまく設計されている。自分は左利きなので、なんとなく無骨な、ごろんとした文字を書いてしまう。今となってはそれも愛せるようにはなったが。

 この本の筆者のなかにどのくらい左利きの方がいるかはわからないが、まあ右手で書かれた方がほとんどだろう。右手で書き、かつ言葉を生業としてきた人々の、長年の経験を湛えた文字というのは届こうにも届き難い魅力を感じてしまう。

 

●ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波文庫

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 大好きな漫画である『思えば遠くにオブスクラ』(靴下ぬぎ子、秋田書店)にも登場する1冊。小さな虫や鳥だとかが、どう世界を「見ている」のか。「環世界」というキーワードを使って説明してくれる。

 この「環世界」は同一の生物種の間でも異なりうる。生活してきた文化や風土が違う人間同士でも、見えている風景がまるで異なるということがあり得るのだ(本書にも、実際そういうシーンを説明している箇所がある)。当たり前といえば当たり前のことだが、改めて認識。

 

モーリス・ブランショ 安原伸一朗訳『問われる知識人』月曜社

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 「顔のない作家」ブランショによる知識人論。1984年に刊行された文章で、もともと対外的な発表を意図することなく書かれたものであるそう。

 大きく「知識人とは何か」、「知識人とはどうあるべきか」という問いに対して考察する文章となっている。具体的には反ユダヤ主義に発端するドレフュス事件第二次世界大戦中のファシズムをテーマにとり、当時の「知識人」(ヴァレリーハイデガーなど)がそれらにどう呼応したかを批判的に検討したもの。

 繰り返されうる巨大な暴力に対して知識人がどのようにあることができるか。恐らくp.57-59にある文章が、ブランショからのひとつの回答であるということになろう(書き起こすには長いので略)。

 訳者・安原伸一朗による解説『文学と政治の間で』がとても読みやすく、ブランショのテキストを読み解くのに必要な知識もかなり補完してくれているので、先にこちらを読んでから本文にトライしてもいいかもしれない。次回読む際にはそうしようと思う。

 興味深いのは、ブランショ自身が文壇デビュー〜30歳代ごろまで極右のナショナリストであったという点。本作が刊行を前提としていなかったということを踏まえると、この文章はもともとブランショ自身の内省として書き始められたのではなかったか、という可能性が解説でも触れられている。

 

 ジェヨン 牧野美加訳『書籍修繕という仕事』原書房

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 タイトルに興味を惹かれて購入。本にまつわる仕事はいろいろ勉強してきたつもりだったが、「書籍修繕」という仕事についてはほとんど知らず、新鮮な思いで読み進めた1冊。

 この本における「修繕」という言葉には、単純にダメになったところを直す「修理」や、完全に元通りにする「修復」とはまた違った意味が込められている。ジェヨン書籍修繕では、依頼人の本への思い入れや、その本を今後どうしていきたいか(例:子どもに上げる等)をヒアリングし、それに基づいて修繕を進めていく。だから、購入時の姿に戻る本ばかりでなく、当初と違った姿で依頼人の手に戻っていくものも多い(本書の口絵部分にはジェヨン書籍修繕でこれまでに手がけられた「作品」が多く掲載されており、どれも素晴らしい)。綻びを直す「職人」であると同時に、人間の思想・希望を本の形で表現する「芸術家」でもあるといえそうだ。

 書籍修繕に使うブラシやハサミの解説など、技術的な部分の説明も充実しているのがありがたい。筆者はもともと美術大学でデザインの勉強をしており、米国の大学院で書籍修繕のテクニックを習得したのだそう。

 ジェヨン書籍修繕はソウルにあるが、日本にも同じような書籍修繕の工房があるかと調べてみたら、いくつかあるようだった。ただ、「書籍修繕」という言葉で検索するとこの本が一番最初に出てくるあたり、まだまだ知られていない部分が大きそうである。

 

●クロード・レヴィ・ストロース 今福龍太『サンパウロへのサウダージみすず書房

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 元になっているのは構造主義の旗手である文化人類学レヴィ=ストロースによる写真集で、日本語版はやはり文化人類学者である今福龍太氏の写真と論考を組み合わせたもの。

 レヴィ=ストロースによるオリジナル写真(1935〜1937年撮影)と今福氏による現代のサンパウロ(2000年撮影)の写真を比較して見ることができるという構成になっている。レヴィ=ストロース文化人類学者として、写真のもつ暴力性や搾取性について明確に批判している。特にヨーロッパ人が(旧)植民地や「未開地」で撮利、持ち帰ってくる写真については。しかし、サンパウロでは自らカメラをもってかなりの枚数を撮っているところや、後年の著作では結構こだわった加工までして写真を掲載しているところをみるに、写真そのものについては純粋に関心があっただろうことが窺える。

 そうしてまとめられた写真集に付けられたタイトルが「サウダージ」であることは尚のこと興味深い。

 

カール・ヤスパース 橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー

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 上記でブランショが提示した「巨大な暴力や危機に対して知識人に何ができるか」という問いへの、ひとつの別回答とも言えそうな一冊。そう言えばこの2冊は同じ書店で買ったのだった。なお、こちらのほうが『問われる知識人』よりもずっと早く、1946年には大学の講義として世に出ていた。

 ドイツの精神科医・哲学者であるヤスパースは、侵略者であった自国の立場から、「ドイツ国民」が第二次世界大戦での罪をどう捉え、受け入れるべきかを本書(講義)で提示する(ヤスパース自身はナチスを批判し、また妻がユダヤ人であったために政権から追われる立場にあった)。ハイレベルな内容ではあるが、「国民」や「市民」といった大きな主体が責任を負うべき状況やその方法について真摯に書かれており、現代まで通用する部分も多いと感じた。

 またここで留意すべきは(というか個人的に留意したのは)本書が所謂「一億総懺悔論」のような論法を推奨しているのでは決してないことだと思う。ヤスパース自身も「集団を有罪と断定するのは、月なみの無批判的な考え方が安易さと傲慢さとのためにともすればおちいりやすい誤謬である(p.64)」、つまりそもそも間違いであると説明している。本書で語られるのは「ドイツ人であれば全員悪である(、はいこの話終わり)」ということではなく、あくまで「ドイツ人一人ひとりがどのようにこの戦争と向き合うべきか」であると感じた。

 

茨木のり子『ハングルへの旅』朝日文庫

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 これまでは主に詩を中心とした作品に触れてきた茨木のり子だが、今回はじめてハングルをテーマとしたエッセイを読んだ。50歳でハングルの勉強を始めた詩人が、言語の習得と「となりの国」の文化について語っている。私も、韓国文学の影響で少しハングルに触れる機会を作ってみているが、とてもまだ読んだり書いたりできる気がせず、この詩人の意欲に対しては尊敬しかない。

 隣国の人はむやみやたらと「ありがとう」を言わない、という話が面白かった(p.140)。日本人は「ありがとう」と言いすぎるそうで、向こうではここぞというときにとっておくべき言葉らしい(もちろんちょっと古い本なので、今どうなっているかはわからない)。「ありがとう」も「감사합니다」も、それぞれ重要な感情を人に伝える言葉だという本質は、きっと共通しているだろう。謂わばそれらの「大切にされ方」に違いが出るというのが興味深かった(多くの人と共有するのか、できるだけ手元に留めておくのか)。そのほかにも日本と韓国の諺の比較や食文化の解説などもあり、飽きない。

 詩人の筆力と広範にわたる文化へのアンテナが冴え渡る1冊だった。

 

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま文庫

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 真木悠介、もとい見田宗介社会学専攻の学生だったころ、見田氏の著作は引用文献としていくつか触れたことがあったが、この本は読んだことがなかったのだった。

 ペルー生まれのアメリカの人類学者、カルロス・カスタネダの残した著作をリファレンスとした比較社会学の研究書で、カスタネダインディオの師ドン・ファンとの交流で得た言葉や経験を多く紹介している。

「啞者のことばをきく耳を周囲の人がもっているとき、啞者は啞者ではない。啞者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて啞者である。啞者とはひとつの関係性だ」(「序 「共同体」のかなたへ」p.29)

 存在の特性を他者との関係性のなかに見出す視点を感じる一文である。社会構築主義的、あるいは構造主義的な視点と言ってもよいかもしれない(少なくとも発想としては近いのではないか?)。改めて言うまでもないが、真木がまぎれもなく「社会学者」であることが感じられる一節だ。同時に、啞者だけがわかる言語、あるいは健者にはわからない言語の存在も示唆している。

 本書を座右の書として挙げる人は、結構多い。そういった人々と比べると、自分はまだまだ本書の魅力を十分に味わいきれていないという気もする。折に触れて読み返したい本となった。