8月で、今年読んだ本が100冊に届いた。しばらく前から冊数にこだわることはやめたつもりだが、それでも「100」という数字を見るとある種の達成感があってよい。
村上春樹再読の流れ、継続中。この作品は、昨年の末にアジカンのゴッチさんがブログ「ドサクサ日記」で取り上げており、そういえばまだ読んでいなかったなと思って買ったのだった。そして8月まで積んでいたということになる。
https://note.com/gotch_akg/n/n5c847dcf9aaf
「ドサクサ日記」では、当時存命だった(!)坂本龍一の最後のコンサートについて語られており、連想される文学作品として『螢』とカズオ・イシグロの『Never Let Me Go』が言及されていた。キーワードとしては、「喪失の痛み」「死との距離」といったあたりになるだろうか。『螢』の作中に「死は生の対極存在ではない。死は既に僕の中にあるのだ(p.31)」という一節があるが、これは「作品」と呼ばれるものを作ることを生業とする人々、つまり芸術家にとって多少なりとも意識されることなのではないだろうか(作品は作者自身の生・死を超越して存在しうるので)。
個人的には、村上春樹作品は長編よりも短編が印象に残ることが多い。本作に収められた他の作品では、『踊る小人』が好きだった。
「僕の手や足や首は、僕の思いとは無関係に、奔放にダンス・フロアの上をまった。そんな踊りに身をまかせながら僕は星の運行や潮の流れや風の動きをはっきりと聞きとることができた(p.119)」
そういえば、最近はダンス論の本を探している。
●鄭芝溶 吉川凪訳『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』CUON
鄭芝溶(チョン・ジヨン)という詩人のことは本作で初めて知った。主に1920年代〜1930年代に創作した詩人で、それまで漢語で書くことが文化人の条件とされていた状況下でハングルの詩を発表し、朝鮮現代詩の魁となった人。
「聞きなれない鳥の声がして
清楚な銀時計で殴られたように
心はあれこれの用事に引き裂かれ
水銀玉みたいにころころ散らばる
寒くて起きるのがほんとに嫌だ (『早春の朝』、p.44)」
100年ほども前に書かれた詩であるにもかかわらず、詩人が見た光景や温度が伝わってくるかのように感じる。言葉で記すことはときに視覚資料以上にくっきりと景色を見せてくれる。
一方で、「僕には国も家もない(『カフェ・フランス』p.64)」といった一節には植民地を故郷とする人だけが抱く孤独が明瞭に現れている(当時の宗主国は当然、日本である。さらっと読み飛ばすわけにはいかない一節である)。
詩人自身の思想や感覚の記録であると同時に、時代を書き留めるジャーナルとしての詩の力を感じる詩集だった。
最後は朝鮮戦争の混乱のなか、京城(ソウル)から平壌に移ったまま行方不明になった。「越北作家」として、韓国では1988年まで作品が発禁となっていたそうだが、この辺りのことを知るためにも朝鮮半島の歴史を勉強し直したい。
●くどうれいん『桃を煮るひと』ミシマ社
くどうれいんさんの食エッセイはどれも大変美味しそうで好きである。5年ぶりのエッセイ集となるこちらも早速読んだ。後日オンラインの読書会に参加し、本作の感想を数人で共有したのも楽しかった。
個人的には「ひとりでご飯を食べられない」(p.15)の章が印象的だった。というのも、自分はひとりでご飯を食べられるので(というか一人暮らしを始めてから基本的にご飯はひとりで食べている)ので、「ひとりで食べられないってどういうこと?」というところからこの章を読み始めることができるのである。こういうのは、個人的な経験をベースにしているエッセイという文章形態の重要な楽しみ方だろう。なぜくどうさんがひとりで食べられないのかは実際に読んだほうが楽しいと思うが、結論としてはひとりで食べる派の自分にも「それはなんかわかるかも」な理由だった。
作中に登場する食品も魅力的なものばかりである。特に「瓶ウニ」(p.38)。私はウニも全然好きじゃないのだが、ここで描かれる瓶ウニはとても美味しそうだと思った。誰かにとって特別好きでもないものを美味しそうに書くというのも、すごいセンスだと思う。
「京都×ファンタジー」の系譜のなかでは森見登美彦派である自分だが、久しぶりに新潮文庫の棚をぶらぶらと眺めていたら本作が不思議と目に留まり、手にとった。故にやや珍しく万城目学。
結論、面白かった。急急緩加速急緩一時停止、みたいな独特のテンポ感も楽しく、変なもったいぶりのない人物描写も好みだった。神様が結構カジュアルな、おちゃらけた存在として登場するのだが(まあこれはあの『四畳半神話大系』なんかもその系譜と言っていいと思う)、これが違和感なく受け入れられるのは八百万の神々が前提となっている日本ならではの文化なのかな、と思うなど。恐れ敬うべき神様もいればヘラヘラした神様もいるっしょ、というところがすんなり理解できるというのは案外貴重なスキルかもしれない。
基本的にはお気楽に読めるエンタメだが、最後の表題作(あ、この作品はオムニバスです)は地震を題材としていることもあり、他の作品とは少し毛色が違う。しかしそれもきちんと作品に必要なシリアスさとなっていて、アンバランスさは感じなかった。
●モーリス・ブランショ 安原伸一朗訳『問われる知識人』月曜社
「顔のない作家」ブランショによる知識人論。1984年に刊行された文章で、もともと対外的な発表を意図することなく書かれたものであるそう。
大きく「知識人とは何か」、「知識人とはどうあるべきか」という問いに対して考察する文章となっている。具体的には反ユダヤ主義に発端するドレフュス事件や第二次世界大戦中のファシズムをテーマにとり、当時の「知識人」(ヴァレリーやハイデガーなど)がそれらにどう呼応したかを批判的に検討したもの。
繰り返されうる巨大な暴力に対して知識人がどのようにあることができるか。恐らくp.57-59にある文章が、ブランショからのひとつの回答であるということになろう(書き起こすには長いので略)。
訳者・安原伸一朗による解説『文学と政治の間で』がとても読みやすく、ブランショのテキストを読み解くのに必要な知識もかなり補完してくれているので、先にこちらを読んでから本文にトライしてもいいかもしれない。次回読む際にはそうしようと思う。
興味深いのは、ブランショ自身が文壇デビュー〜30歳代ごろまで極右のナショナリストであったという点。本作が刊行を前提としていなかったということを踏まえると、この文章はもともとブランショ自身の内省として書き始められたのではなかったか、という可能性が解説でも触れられている。
●茨木のり子『女がひとり頬杖をついて』童話屋
かの名作絵本『葉っぱのフレディ』で知られる出版社・童話屋から刊行されている詩集の茨木のり子集。ページを繰ってみると、既に読んだことのある作品も多くあったが、そこは敬愛する詩人の作品ということでなんぼ読んでもいいですからね、しっかり再読した。
2度、3度と繰り返して読んでみることでその面白さ・美しさが改めて感じられるということもままある。
「『先生 お元気ですか
我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました』
他家の姉が色づいたとて知ったことか
手紙を受けとった教授は
柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか(『笑う能力』p.46)」
手紙の時代だからこその笑い話だろう。現代でもタイプミスが思わぬ喜劇や悲劇を生んでいることが知られているが、「あね」と「かき」は打ち間違わない。笑い話のなかにも季節感や風景の「手触り」がありありと感じられるのがよい。
「沈黙が威圧ではなく
春風のようにひとを包む
そんな在りようの
身に添うたひともあったのだ(p.67)」
これもまた好きな一節。ほんらい、いずれも同じ無音状態であるはずの「沈黙」が、その場にいるのが誰かによって、どれほど違う意味をもつことか。「ひと」がひらがなに開いてあるのが、また独特の柔らかさを醸し出している。
●マイケル・ローゼン 内尾太一訳 峯陽一訳『尊厳』岩波新書
「尊厳」という、よく聞きはするけれどもどこか漠然とした概念について、カントの哲学を起点にその現代的意義を問い直した一冊。さすがにかなり難しく、1度通読しただけで議論の全体を見通すことは叶わなかった。しかし所々にこれは、と思うセンテンスや説明があったのでそこは良しとしたい。というかカントの基礎をわかってないとそうとう厳しいな。
カントは「人間性の尊厳の根拠となるのは自律である」と書いている。ローゼンによれば「人間性の無条件的で比較できない価値の根拠をなすのは自律である」とも読み替えられる(無条件的で比較できない価値=尊厳)。自律、つまり事故を律して生きていくことができるということは何ものにも替えがたい人間の存在証明であって、いかなる他者によっても侵害されるべきではない、と、そういうことか(合ってるかな?)。「尊厳」についてそのような説明が可能だとは考えたことがなかったので、興味深かった。
ところで、後世にカント主義を批判したニーチェは尊厳についても「つまり絶対的人間は、尊厳も、権利も、義務も有していない、という倫理的結論を導き出せるだろう」と言っているらしい。なんかすごい。ローゼン曰く、ニーチェがここで尊厳について言及している事実はとりも直さず、同時代に尊厳の概念がしっかりと発達していたことを表している。
長らく積んでいた大作に、ついに手を出した。椎名林檎の名曲を引き合いに出すまでもなく、現代までのあらゆる『罪と罰』タイトル作品の元ネタとも言うべきこの作品、まだ下巻は読めていないがじっくり取り組んでいきたい。とはいえ、非常に著名な作品なのであらすじはざっくり知っていたりもする。
ロシア語文学は少し前にゴーゴリの『外套』を読んだのが久しぶりで、その時も感じたのだが「意外と」読みやすい。特にドストエフスキーの作品は上下2巻・3巻と長大なものも多いので身構えてしまうのだが、文章自体はいい意味で淡々としており、晦渋なところが少ない。これは19世紀のロシア語文学の傾向なんだろうか。
ラスコーリニコフによる第1の殺人〜第2の殺人のシーンはさながらサスペンス小説のような緊迫感で、ページをめくるスピードも早くなった。一方でその後に警察から呼び出しが来るシーンは緊張感のなかにどこか間の抜けたような雰囲気もあって、この辺のリズムの緩急も面白いポイント。
また、当時のロシア社会や街の雰囲気も文章からイメージしやすく、頭の中に映像を作りながら読んでいた。恐らくかなり格差が激しい社会だっただろうと想像する。そういった意味で、本作は社会批判としての小説の役割も果たしているのだろう。というあたりも踏まえて下巻に行こうと思う。
●カール・ヤスパース 橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー
はからずも(ということもないが)、上記でブランショが提示した「巨大な暴力や危機に対して知識人に何ができるか」という問いへのひとつの回答とも言えそうな一冊。そう言えばこの2冊は同じ書店で買ったのだった。なお、こちらのほうが『問われる知識人』よりもずっと早く、1946年には大学の講義として世に出ていた。
ドイツの精神科医・哲学者であるヤスパースは、侵略者であった自国の立場から、「ドイツ国民」が第二次世界大戦での罪をどう捉え、受け入れるべきかを本書(講義)で提示する(ヤスパース自身はナチスを批判し、また妻がユダヤ人であったために政権から追われる立場にあった)。ハイレベルな内容ではあるが、「国民」や「市民」といった大きな主体が責任を負うべき状況やその方法について真摯に書かれており、現代まで通用する部分も多いと感じた。
またここで留意すべきは(というか個人的に留意したのは)本書が所謂「一億総懺悔論」のような論法を推奨しているのでは決してないことだ。ヤスパース自身も「集団を有罪と断定するのは、月なみの無批判的な考え方が安易さと傲慢さとのためにともすればおちいりやすい誤謬である(p.64)」、つまりそもそも間違いであると説明している。本書で語られるのは「ドイツ人であれば全員悪である(、はいこの話終わり)」ということではなく、あくまで「ドイツ人一人ひとりがどのようにこの戦争と向き合うべきか」である。
久しぶりに本の「ジャケ買い」をした。装丁・櫻井ひさし、絵・阿部海太。濃い青の色調の絵を全面にあしらい、表題等は銀の箔押し。ハードカバーながら新書版サイズという珍しい判型も面白い。とにかくビジュアルからして独特な雰囲気を纏った1冊で、手にとって眺めているだけでも気づけば5分ぐらい経つ。タイトルが『孤独先生』というのもこれ以上ないマッチングだろう。
上林暁も今回が初読の作家。高知を故郷とする小説家で、特に私小説をメインジャンルとしたそう。すぐれた私小説を読むといつも感じることなのだが、一人の人が個人的な体験や思想を書き連ねたものが、どうしてこれほど面白く、印象に残るのだろうと思う。本作でも、『天草土産』や『淋しき足跡』で描かれる野や山、海の情景、また登場人物の顔つきまでもが生き生きと描写されていて、それだけならそういう書き方が上手いんだというだけの話なのだが、なかなかどうしてそれらが自分自身の記憶のどこかとリンクして強い印象を残す。
自分の記憶や体験とのリンクという意味ではちょっと弱いのだが、単純に話として好きなのは『二閑人交遊図』。瀧澤兵五と小早川保という2人の閑人(実際には閑人というほとヒマではないと冒頭に但し書きされているが)が、酒を飲んだり釣りをしたりする話である。なんということもない話のはずなのだが、いい年の大人ふたりがまったり遊んでいる情景はどこかほっとする。
●ジェヨン 牧野美加訳『書籍修繕という仕事』原書房
こちらもタイトルに興味を惹かれて購入。本にまつわる仕事はいろいろ勉強してきたつもりだったが、「書籍修繕」という仕事についてはほとんど知らず、新鮮な思いで読み進めた1冊。
この本における「修繕」という言葉には、単純にダメになったところを直す「修理」や、完全に元通りにする「修復」とはまた違った意味が込められている。ジェヨン書籍修繕では、依頼人の本への思い入れや、その本を今後どうしていきたいか(例:子どもに上げる等)をヒアリングし、それに基づいて修繕を進めていく。だから、購入時の姿に戻る本ばかりでなく、当初と違った姿で依頼人の手に戻っていくものも多い(本書の口絵部分にはジェヨン書籍修繕でこれまでに手がけられた「作品」が多く掲載されており、どれも素晴らしい)。綻びを直す「職人」であると同時に、人間の思想・希望を本の形で表現する「芸術家」でもあるといえそうだ。
書籍修繕に使うブラシやハサミの解説など、技術的な部分の説明も充実しているのがありがたい。筆者はもともと美術大学でデザインの勉強をしており、米国の大学院で書籍修繕のテクニックを習得したのだそう。
ジェヨン書籍修繕はソウルにあるが、日本にも同じような書籍修繕の工房があるかと調べてみたら、いくつかあるようだった。ただ、「書籍修繕」という言葉で検索するとこの本が一番最初に出てくるあたり、まだまだ知られていない部分が大きそうである。
インスタに長めの感想を載せたので再掲。
「十月小春の日の光のどかに照り、小気味良い風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮やかに映している」(国木田独歩『武蔵野』、岩波書店、p.18)
『武蔵野』という本を読んだ。明治時代後期の東京近郊をテーマにしたエッセイで、そこに見られる美しい自然と、人間生活の趣を描いた作品となっている。
作家である独歩自身が居を構えた場所を中心に、史実や地理情報に取材しながら書かれた丁寧な文章が印象的だ。読んでいくと、独歩が見ていた景色が鮮明にイメージできるようで楽しい。
ところで、独歩が執筆当時住んでいたのはどこかというと「渋谷村」である。あの渋谷である。マルキュー、ヒカリエ、マークシティの渋谷である。要するに独歩のいう『武蔵野』には、現在は大都会になっているようなエリアも含まれている。
ほんの100年前くらいに書かれた文章でも、今の渋谷や新宿、池袋あたりの描写を読むとその印象の違いに驚くことが多い。基本的に、当時の東京の中心部というのは今でいう丸の内とかそのあたりで(今も一応そうなのだろうが)、皇居から西のほうは緑豊かな雑木林〜農村地帯だったようだ。
私が住んでいる練馬などは山の中だっただろう。
ここで別に「渋谷と言ったって昔は田舎だった」とか、あるいは「東京からは豊かな風景が失われてしまった」とか言うつもりは特にない(だいたいにして自分は開発が進んでからの旧・武蔵野に世話になりっぱなしで生きているのだから)が、『武蔵野』のような本を読んで往時の姿をイメージしてみることは、シンプルに面白い。これは自分にとって古い本を読む大きな楽しみのひとつでもある。
「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へ行けば必ずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある」(国木田独歩『武蔵野』、岩波書店、p.17)
この一文に関しては、現代の“武蔵野”についても案外同じことが言えるのではないかと思う。
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ちなみに、今でこそサブカルチャーの発信地/集積地の代表格である下北沢については坂口安吾がこんなことを書いている。
「私が代用教員をしたところは、世田ケ谷の下北沢というところで、その頃は荏原郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった」(坂口安吾『風と光と二十の私と』岩波書店、p.62)