3月、わりとあっちこっちに行ったりライヴしたりで、まあまあやることがあった。先月よりは少し減の10冊。
1.シモーヌ・ヴェイユ 田辺保訳『工場日記』筑摩書房(ちくま学芸文庫)
生前はほぼ無名なまま、終戦を目前にして34歳で去った哲学者シモーヌ・ヴェイユ。かつて『重力と恩寵』にトライするも、その難しさと長大さに圧倒されて未だ読み切れないでいる。『工場日記』を先に読み始め、先に読み終わる結果となった。
哲学教師の仕事を休職し、未熟練工として各地の工場で働いた8か月間のルポルタージュである。マルクス主義を熱心に研究し、後には理論的な批判も展開したヴェイユが、当時の労働者の実情を知るべく、そして「人間性を壊廃させる必然性の機構のなかで、果たして人間本来の生は可能なのか(裏表紙より)」という根源的な問いに向き合った著作となっている。
日記には、その日に彼女が取り組んだ仕事の記録と、工場で働く同僚や上司たちの姿が描かれているほか、賃金や生産高の計算メモが多く残されている。持病があり、決して健康そのものとはいえなかったヴェイユだが、工場の過密な勤務からの退勤後にお金の計算を含めた日記を毎日(!)書いていたというその事実だけでも、相当なタフさというか、思索への執念のようなものが伺える。書くという営為の強度と繊細さと、その両方をひしと感じる文章だった。
2.プリーモ・レーヴィ 竹山博英訳『休戦』岩波書店(岩波文庫)
絶滅収容所を生き延びた作者が、故郷のイタリア・トリーノに戻るまでの旅の記録。旅といってももちろん旅情豊かなものではなく、粗末な列車に揺られての過酷な道程である。
本書の冒頭では作者がアウシュヴィッツで迎えた「解放」のシーンが描かれるが、その世界は徹底的に人間性を破壊され、人がもののように扱われる世界である。トリーノへの旅は、アウシュヴィッツを経験した人間が人間性を回復していく過程でもあるのだった。
重く厳しいテーマを扱っていながらしかし、レーヴィの筆致はどこかユーモラスですらある。はじめのうちはその雰囲気がテーマとちぐはぐなような気もしたのだが、読み進めていくほどに、それはとりもなおさず「人間性の回復」という点に接続するのだと気づいた。
ポーランドから出発してソ連、ルーマニア、ハンガリー、オーストリアと舞台が移り変わっていく本書では、人々の交わす言語も重要なファクターになっている。解放後、はじめてロシア語の単語を理解する場面。ギリシャ人と話すときのフランス語。オーストリアで、恐ろしい記憶と結びついているはずのドイツ語をふと懐かしく思う場面……。言語にまつわる一つひとつの描写に何重もの意味が込められている。
ユダヤ人であったレーヴィが、イスラエルによるパレスチナ侵略を批判していたという事実はごく最近知った。
3.僕のマリ『いかれた慕情』百万年書房
『常識のない喫茶店(柏書房)』でのパンチの効いた文体と、「そんなことまで言ってええんか!」という赤裸々な内容に衝撃を受けて以来、頭の片隅で気になり続けている作家のひとり。本作は、僕のマリさんが(ふと気になったのだが、お名前が「マリ」さんだとして、苗字〈?〉で呼ぶ場合は「僕の」さんでいいんだろうか)2018年に初めて作ったという私家版ZINE『いかれた慕情』をベースに、書き下ろし等を合わせて書籍化したもの。たしかに2018年の文章と2023年の文章とでは、いろいろ違いもあって面白く読んだ。
ことに印象に残ったのは、2018年の作品である「確かに恋だった」。
「わたしたちは暗く深く、ふたりだけの国を築いてひっそりと愛し合っていた。(p.185)」
「もう一生会うことはないし、連絡先も知らない。いまどこで何をしているかお互い知らない。(p.190)」
恋とは。私はアロマンティックなので、恋とはなんたるかを実感としてよくわかっておらず、ラヴ・ストーリーをお勉強のようにして読んでしまう癖があるのだが、この文章は不思議とそういう感じがせずすんなりと読めた。言葉選びの妙か、心の描き方がお上手なのか。新鮮な読書体験だった。
4.吉澤誠一郎『中国近現代史① 清朝と近代世界』岩波書店(岩波新書)
昨年、映画『ラストエンペラー』のリマスター版を観た。清朝最後の皇帝・溥儀の生涯を描いたその映像を見ながらふと、自分の世界史への知識の浅さを感じた。感じたものの、そこから1年近くも日々の雑事にかまけて勉強を怠り続けてきてしまった。今年はいろいろ歴史の本を読んでみようという目標を立て、中国史についてはまずはここから……と「清」の歴史を見ていくことに。
学生時代の歴史の授業を思い起こしてみると、清がかかわってくるできごとといえばアヘン戦争に日清戦争と、諸外国が絡むものが多い。そしてそれは、「科学技術や高度な戦闘術をもった“列強”に苦戦するアジアの国」というイメージとして語られることも多かったように思う。
実際に本書を読んでみると、中国国内で起こる課題や争いに対処しつつ、政治・経済あらゆる方面から干渉してくる国々との外交に注意深く取り組んだ姿が見えてき、以前に清に対して抱いていたイメージが変容してくるのを感じた。やはり歴史というものは一つの立場から見るだけでは限界があるなと思う。
「中国近現代史」はシリーズになっているので、しばらく追って読み進めたい。
5.石野裕子『物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』(中央公論新社)中公新書
2024年・歴史の本を読んでこうシリーズ第2弾。北欧はフィンランド。個人的なフィンランドの最初のイメージはF1ドライバー・ラリードライバーを多く輩出した国、というものだった。なにかと速い人が多い。
現在の(日本における)フィンランドのイメージといえば教育・福祉が充実し、幸福指数の高い理想郷、といったところだろうか。たしかにそういう一面もあるとは思う。一方で少しでも歴史を追ってみると、そこに見えてくるのはフィンランドという国のかなり武闘派な一面というか、西欧諸国とロシアに挟まれて長らく独立を保ってきただけの力をもった姿である。本書においてもソ連〜ロシアの存在感はかなり大きい。西サイドの隣国であるスウェーデンとの関係も一筋縄ではない。
フィンランドが経験した多くの戦争の中でも1918年の赤軍・白衛軍の内戦は国内でも長らくアンタッチャブルな話題になっていたようで、その事実は小説や映画といった芸術によって後世に伝えられたらしい(p.113)。歴史のなかでフィクションの言語がもつ力。
なお、本書執筆時点(2017年)では「ロシアに配慮して(p.241)」加盟していなかったNATOに、現在は加盟している。そして先月、スウェーデンも。
6.大岡信 谷川俊太郎『対談 現代詩入門』中央公論新社(中公文庫)
大岡信と谷川俊太郎、このふたりの大家が同い年ということは浅学にして今まで知らなかった。しかも対談では、さながら高校の同級生かなにかのごとく「大岡」「谷川」とお互いを呼び合っているのでおもしろい。「くん」でも「さん」でもないんだ、っていう。
現代詩入門と銘打っているとおり、本書刊行時での現代(1989年)における詩の状況について語られている。あくまで文章(話し言葉)は平易でわかりやすい。前半は比較的歴史的な部分の振り返り要素が多く、後半にかけて若手詩人の作品を講評したり、日本語の変化と詩的言語の変化を結びつけて考えたりと「現代」っぽくなっていく。個人的には後半部分が特に面白かった。p.79〜「若い人たちの詩を読んでどう考えたか」では偉ぶることなく、かといって殊更に褒めあげることもなく、一定のテンションで評価すべき部分と課題とすべき部分を論じているところは流石だと思った。「いまの人たちは、行間の余白というものにまったく頼れなくなっているという感じね(谷川・p.87)」。
最後の章・「現代詩のさまざまな試み」にも興味深いことが書いてあった。
「あらゆる言語の詩というものは、すべて自己表現であるよりは、他を称える、他を怖れるという性質が非常に大きかったと、ぼくは思うのね」
「だからこそ詩は個人の単なる歎きとかの領域を超えて、一千年、二千年を経ても僕らを打つ、そういう要素をもっているのだと思うんだ(大岡・p.198)」
7.ミハイル・ブルガーコフ 水野忠夫訳『悪魔物語・運命の卵』岩波書店(岩波文庫)
キーウ(キエフ)に生まれ、帝政ロシア〜ソビエト時代前期までを生きた作家、ブルガーコフ。晩年に執筆された長編『巨匠とマルガリータ』が有名だが、こちらはそれぞれ1923年に書かれた短編作品である。
マッチ工場の事務員が自らの分身に翻弄されるダークSF調の「悪魔物語」は、一読してゴーゴリの「外套」に通じる不気味さ、不条理感があるように感じた。実際、同じ帝政ロシア期のウクライナに生まれた作家としてゴーゴリとブルガーコフはよく比較されるらしい。ブルガーコフの作品は「奔放な想像力とグロテスクな技法に支えられて、諷刺とにがい笑いで現実を批判し尽くしている(p.272)」と解説されているが、ここで諷刺されているのは誰も把握しきれないままモンスター化した官僚機構や、身に覚えのない罪状で不利益を被る羽目に(いつでも)なりえた当時のソビエトの社会だろうか。
「運命の卵」も不気味だが面白かった。こちらはカレル・チャペックの「R.U.R」が頭をよぎったが、科学技術や人間中心主義的な思想への懐疑が根底にあるのだろう。科学による進歩を標榜する共産党政権からは認められなかったらしい。
詩人・長田弘の手によるエッセイ集。「I 読む」「II 聞く」「III 考える」の三部構成になっており、それぞれ短いテーマに基づき、短ければ1ページ、長くても4〜5ページほどで筆者の思考が書き留められている。
タイトルには「読書の」とついているものの、内容は本のことばかりではなく、手紙や話し言葉、視覚的なイメージ、歴史、スポーツなどなど多岐にわたる。人間が経験しうるものを広く捉えて「読む」「聞く」、あるいは「考える」対象として設定しているのだろうか。
「親展として誌されるべき言葉がある。親展は、手紙が人と人のあいだにつくった、もっとも親身な言葉の回路だった。(中略)しかし、こころを込めて誌された手紙を手にするということが、日々の習慣になくなって、こころにとどく言葉を直接受けとる機会をもつことが、ふだんにすくなくなってから、親展という言葉の手わたしかたは、いつかわすれられてきた(p.6)」
たしかに、と思う。「親展」になぜ「親しい」という言葉を使うのか疑問に思うくらい(だって「親展」と書かれて届く郵便物といえば公共料金の支払いか税金関係ぐらいのものだ)になったいま、かつてあらゆる遠方のやりとりが郵便で行われていた時代を思う。
9. チョン・イヒョン 斎藤真理子訳『優しい暴力の時代』河出書房新社
「優しい暴力」とはなんだろう。改めて「暴力」という言葉の意味をひいてみると「乱暴な力。 無法な力。 不当な腕力」と出てくる。「優しい暴力」とは、あえて選ぶならば2つ目の「無法な力」になるだろうか。法を犯す、あるいはこう解釈してよければ、法の及ばないごく親密な、ミクロな世界で行われる侵略。
作家自身は次のように語る。
「今は、親切な優しい表情で傷つけあう人々の時代であるらしい。
礼儀正しく握手をするために手を握って離すと、手のひらが刃物ですっと切られている。傷の形をじっと見ていると、誰もが自分の刃について考えるようになる(pp.229-230)」
誰かに傷つけられるということはショッキングな出来事だが、その実自分自身も傷つける側の存在になりうる。そのことにまで思いを及ばせることができるかどうか。上記の書き方からして、その点について作家は読者をかなり信頼しているように見える。
韓国と北朝鮮(、そして日本)との関係をバックグラウンドに、痛みを伴う友情の始まりと終わりを描いた「ずうっと、夏」、ダンススクールで出会った知人との思わぬ場面での再開から物語が転がりだす「アンナ」の2作は特に印象的だった。大切な人を守ろうと思うこと、「よかれと思って」することが暴力に転じてしまうことの痛ましさを考えさせられる。
10. 岡真理『ガザに地下鉄が走る日』みすず書房
「だが、毎年、そこで語られる言葉、『このようなことを二度と繰り返してはならない』という誓いは、いったい何を繰り返さないというのか(p.239)」
この一文における「そこ」とは、ポーランドにあったアウシュヴィッツ強制収容所の跡地で開催されている式典のことである。
40年以上かの地に関わり続けてきた文学研究者である筆者による、占領〜完全封鎖下のパレスチナの状況を写しとった記録の本。パレスチナの状況は、1948年の「ナクバ」以降「最悪を更新し続けている」と(本書が発行された当時の2018年には)言われていたという。2024年現在、その状況はさらに繰り返されてしまっているように見える。
本書のキーワードのひとつは「ノーマン(no man)」で、人間性を剥奪された存在を意味する。「十年以上にわたる封鎖は、難民から、彼らに最後に残された人間性をも剥奪することによって、彼らを真のノーマン、人間ならざる者にしようとしている(p.273)」。物理的な攻撃もさることながら、封鎖によって水道や電気、食糧の供給を経つことは人が人らしく生きていくことを否定する。本書はそうした困難を記録する一方で、そこでなお「ノーマン」化に抗し、自身の言葉や思想をもって行動する人々の姿を書きとめている。そしてそこには文学があり、芸術がある。
この本がもたらしてくれるのは今までに起こったことという「知識」だけではなく、今も続く人間の「非-人間化」に対していかにしてNOを突きつけるべきか、そのために私たちができることはなにかという思考のガイドラインでもある。
先月に続き、即時の停戦と、ガザ、ヨルダン川西岸、そして世界のあらゆる地域で起こっている不当な権利侵害の停止を切に願います。