2023 Books(詩歌)

 詩集といわれるジャンルの本を開いてみると、なるほど、「1ページに記されている文字数」は小説や学術書よりも少ない。なんとなく目に優しく、すぐに読み進めることができそうな気がしてくる。

 実際には、そんなこともない場合がほとんどである。少なくとも私という読み手にとってはページの余白は解釈の余白でもあり、詩においてテキストを読んでから考えを巡らす時間はときに学術書のそれよりも長くなる(基本的に“説明”の比重が少ない形式なので、これは妥当なのかもしれない)。

 一方、詩は人間が書くものなので、書いた人のバックグラウンドや時代的なバックグラウンドが重要な補助線になってくれる。読解のための時間を惜しまずに「勉強」することで、詩の解像度は高くなっていく。

 ……といったぐあいに、最近になってようやく自分なりの詩の読み方のメソッドができてきたような気がする。専門的に詩の勉強をした経験があるわけでもなく、好きな詩集や歌集はあるけれど、今ひとつ向き合い方がわかっていないという状態が長かったので、そこからは多少成長したかもしれない。

 

川崎賢子編『左川ちか詩集』岩波文庫

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 佐川ちかについては、福岡の出版社・書肆侃侃房から『左川ちか全集』が出ていてそちらを入手していたのだが、その分厚さゆえに一度途中で止めてしまっており、そうこうしているうちにこちらの文庫が出てしまったという経緯がある。取り急ぎ文庫の方を読むことにした。

 結果からいうと、文庫に収まっているだけでもかなりの読み応えがある。24年というあまりに短い生の間に残された言葉は、掴みどころがないようでもあり、かたや堅牢な手触りを持つようでもあり。

 編者の川崎賢子氏による解説には「若い娘に時代が課したジェンダー(性別役割)を越え、それを再編するような「わたし」世界の関係を描いた(pp.215-216)」とある。これは左川作品を読み解くうえで重要なポイントになっていそうである。

「青白い夕ぐれが窓をよぢのぼる。

 ランプが女の首のやうに空から吊り下がる。

 どす黒い空気が部屋を充たす──一枚の毛布を拡げてゐる。

 書物とインキと錆びたナイフは私から少しづつ生命を奪ひ去るやうに思はれる。(「錆びたナイフ」、p.16)」

 

吉増剛造『続・吉増剛造詩集』思潮社

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 何度読んでも、難解な詩人であると思う。きっと彼の作品により近づくにはもっと時間がかかるはずである。だが不思議と、諦めてしまおうという気にもならない。吉増剛造の作品にはそんな引力がある。

 彼の詩を読んでいると、読書というよりも風景を眺めるのに近い感覚に陥ることがある。それは太陽が髪を靡かせる風景であり、大河の氾濫する風景でもある。風景をみたとき、それを「理解しよう」とはあまり思わないように、彼の詩もまた、理解しようと意気込むことは正解ではないのかもしれない。それでも近づくことはできるだろうし、目に焼き付けることも多分できる。目の前のページに広がっている言葉の風景を、まずは真っすぐに受け止めることが求められているのかもしれない。

 彼の詩の風景を具体的なものにしているのは東京、特に武蔵野に関連する地名たちだろう。多摩川とか、恋ヶ窪とか。

 

●現代詩文庫24『大岡信詩集』思潮社

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「さわることは知ることか おとこよ。」

「さわることは存在を認めることか。」

(p.44)

 視覚への疑念と、触覚への憧憬を各所に感じる詩群。いまだ現代詩は自分にとって難解な部分も多く、(現代詩文庫であれば)後ろに付いている「詩論」「作品論・詩人論」を並行して読んでいる。大岡信とその同時代人についていえば、戦時中に少年期を過ごし、戦後に詩を書き始めた世代となる。その世代について端的に表現した一文が渡辺武信大岡信論」のなかにあるのでこちらもちょっと引用してみる。

「戦争も平和も自分のものでなかった彼らは、現在つまり空間の中にすべてを見たが、何一つ所有していなかった。(p.135)」

 個人的には、この部分で解像度がぐっと上がった。

 最近、詩を読むために大切な作業の1つに「歴史の勉強」があるのではないかとつくづく思っている。詩は、ときに報道やジャーナル以上に雄弁に時代性を語る言葉だと考えているので、その背景たる歴史の理解があるとないとでは、頭への入りやすさがまったく違ってくる。

 

●笹井宏之『てんとろり 笹井宏之第二歌集』書肆侃侃房

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 歌集、それも笹井宏之さんの歌集が読みたくなる瞬間というのが確かにある。『短歌のガチャポン』で、「自分にとって短歌の魅力は短い一節で強烈なインパクトをもらう体験をできること」などと言ったてまえ矛盾するようだけれど、笹井さんの作品はあくまで穏やかかつ、露出大きめで撮った写真のような眩しさを感じて好きである。ばっと腕を掴まれるようなインパクトでなく、繰り返し読むうちにじわじわと体に染み込んでくるような引力がある。

 「寂しさでつくられている本棚に人の死なない小説を置く(「しずく」p.21)」

 「満ちやすいもののすべてが一様に深紅に染まる 終わるのでしょう(「ゆらぎ」p.67)」

 「歴代の財務大臣がきらきらと星をかかえて都心を走る(「ななしがはら遊民」p.110)」

 

尾形亀之助西尾勝彦編『カステーラのような明るい夜』七月堂

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 コロナ禍となってから最初の1年が過ぎたあたり、精神的にかなり疲弊していたころに出会った、大切な思い入れのある本である。にもかかわらず、それから長いこと本棚に眠らせたままにしてあったため、ふとまた手にとってみた。

 宮澤賢治も寄稿した詩誌を主宰するなど、生前は積極的な文学活動を行なっていたようだが決して文学史のなかでも著名な存在ではなく、私自身この詩集によって初めてその名を知った人物である。

 一編一編が短く、素朴な語彙で書かれた詩が特徴的で、事実この1冊を読み切るのにはそう時間はかからない。しかし、読むのに要する時間が短いことは、その内容から得られるものの総量とは必ずしも比例しないということをこの本は教えてくれる。

 「窓を開けても雨は止むまい 部屋の中は内から窓を閉ざしている(p.54「雨」)」

 「空は見えなくなるまで高くなってしまえ(p.66「愚かなる秋」)」

 日本語の基礎的な語彙を使いつつもその並び順を巧妙に操作することで、独特の「引っかかり」やユニークな響きが作り出されており、面白い。

 

茨木のり子『女がひとり頬杖をついて』童話屋

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 かの名作絵本『葉っぱのフレディ』で知られる出版社・童話屋から刊行されている詩集の茨木のり子集。ページを繰ってみると、既に読んだことのある作品も多くあったが、そこは敬愛する詩人の作品ということでなんぼ読んでもいいですからね、しっかり再読した。

 2度、3度と繰り返して読んでみることでその面白さ・美しさが改めて感じられるということもままある。

「『先生 お元気ですか

 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました』

 他家の姉が色づいたとて知ったことか

 手紙を受けとった教授は

 柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか(『笑う能力』p.46)」

 手紙の時代だからこその笑い話だろう。現代でもタイプミスが思わぬ喜劇や悲劇を生んでいることが知られているが、「あね」と「かき」は打ち間違わない。笑い話のなかにも季節感や風景の「手触り」がありありと感じられるのがよい。

「沈黙が威圧ではなく

 春風のようにひとを包む

 そんな在りようの

 身に添うたひともあったのだ(p.67)」

 これもまた好きな一節。ほんらい、いずれも同じ無音状態であるはずの「沈黙」が、その場にいるのが誰かによって、どれほど違う意味をもつことか。「ひと」がひらがなに開いてあるのが、また独特の柔らかさを醸し出している。

 

●池上岑生編訳『フェルナンド・ペソア詩選 ポルトガルの海』彩流社

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 文学作品の特徴というのは色々あって、それは例えばある時代の状況を切り取った「時代の証人」としての特徴だったり、一方でどんな時代にも通用するある種の「真理」としての特徴だったりする。そういった意味で、ペソアの諸作品はまぎれもなく「20世紀初頭のポルトガル」という背景に裏付けられていながらも、なにか遠い国の物語であると割り切れもしない親近感がある。言い換えれば、広い意味での現代人のイシューを的確に描いているのだろう。

「自由になれぬまま

闇のなかを風が荒れ狂う

ぼくは思考から逃れられない

風が大気から逃れられないように

(p.28、『闇のなかを』)」

 ちなみにペソアは「アルベルト・カエイロ」「リカルド・レイス」「アルヴァロ・デ・カンポス」、そして本書には載っていないが「ベルナルド・ソアレス」という異名を使用していた。これらは決して「筆名」や「ペンネーム」ではなく、それぞれに別人格をもった他人という設定であったらしい。

 

長田弘『最後の詩集』みすず書房

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 長田弘氏の文章は主に評論、随筆で触れたことがほとんどで、詩はあまり読んだことがなかった。まとまった詩集を手に取ったのはこれが最初かもしれない。なのに『最後の詩集』。タイトルどおり、作者が他界する直前に自らの手で編纂した詩集とのこと。

 柔らかな印象を与える口語で、リズミカルに短い言葉を並べていく書き方が特徴的。一方、抽象的・普遍的な情景を描いているかと思えば、突発的に現れる固有名詞によって解像度がぐんと上がったりして、意外にスリリングでもある。

 一貫して自然への敬意が描かれているようにも見える。

 「人のつくった、建築だけだ、

 廃墟となるのは。

 自然に、廃墟はない。(p.17)」

 

 しかしながら、安易な人間批判に陥ることがないところも好きである。

 「悼むとは、死者の身近に在って、死者がいつまでも人間らしい存在であれとねがうことだった。(p.37)」

 

 そして言語、書物への愛。

 「昔ずっと昔ずっとずっと昔

 朝早く一人静かに起きて

 本をひらく人がいた頃

 その一人のために

 太陽はのぼってきて

 世界を明るくしたのだ

 茜さす昼までじっと(p.64)」

 いろいろな物事へのリスペクト、愛の集大成としてこの詩集は編まれたのかもしれない。

 

●鄭芝溶 吉川凪訳『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』CUON

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 鄭芝溶(チョン・ジヨン)という詩人のことは本作で初めて知った。主に1920年代〜1930年代に創作した詩人で、それまで漢語で書くことが文化人の条件とされていた状況下でハングルの詩を発表し、朝鮮現代詩の魁となった人。

「聞きなれない鳥の声がして

 清楚な銀時計で殴られたように

 心はあれこれの用事に引き裂かれ

 水銀玉みたいにころころ散らばる

 寒くて起きるのがほんとに嫌だ (『早春の朝』、p.44)」

100年ほども前に書かれた詩であるにもかかわらず、詩人が見た光景や温度が伝わってくるかのように感じる。言葉で記すことはときに視覚資料以上にくっきりと景色を見せてくれる。

 一方で、「僕には国も家もない(『カフェ・フランス』p.64)」といった一節には植民地を故郷とする人だけが抱く孤独が明瞭に現れている(当時の宗主国は当然、日本である。さらっと読み飛ばすわけにはいかない一節である)。詩人自身の思想や感覚の記録であると同時に、時代を書き留めるジャーナルとしての詩の力を感じる詩集だった。

 最後は朝鮮戦争の混乱のなか、京城(ソウル)から平壌に移ったまま行方不明になった。「越北作家」として、韓国では1988年まで作品が発禁となっていたそうだが、この辺りのことを知るためにも朝鮮半島の歴史を勉強し直したい。

 

●現代詩文庫15富岡多恵子詩集』思潮社

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 2023年もまた多くの偉大な作家や芸術家が去っていった。富岡多恵子は4月に他界している。1976年にアルバムを共作した坂本龍一のあとを追うようなタイミングであった。

 生活感のある素朴な言葉のなかに、グッとカメラをズームしたようなやたらと解像度の高い描写があったり、淡々とした風景のなかに突然鮮明なカラーを思わせるような表現が現れたり。独特のリズムをもった詩人であると感じた。「作品論」の章でも触れられているが、人称代名詞が非常に多彩なのもおもしろい。フェミニズム詩人であったということもあり、女性目線で女性の生を描写した作品が多い。

「あなたが紅茶をいれ

 わたしがパンをやくであろう

 そうしているうちに

 ときたま夕方はやく

 朱にそまる月の出などに気がついて

 ときたまとぶらうひとなどあっても

 もうそれっきりここにはきやしない(『水いらず』、pp.70-71)」

 THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの「世界の終わり」との奇妙な一致を感じる一節。チバユウスケが富岡作品を読んでいたかも、もはやもうわからない(たぶん読んでいなかったと思うが)。