2023 . Books(小説)    

 今年は、ジャンルとしては小説をいちばん多く読んだのではないかと思う。じつはわりと最近まで、自分にとって小説は意識して読む(=「これはフィクションだ」と思って読む)ものだったのだが、ここのところは物語に触れるということが生活の流れに組み込まれつつある。ごく自然に。

 特にそうしようと意識したわけではないのだが、振り返ってみると「失うこと」「離れること」を主題とした作品をよく読んでいた。2023年、個人的には大きな挫折や喪失は経験していないが、世界に目を向ければ大きな喪失や別離、あるいは逸脱がいくつもあった。今まさにあり続けてもいる。そのようなことも、今年の読書傾向に影響したように思う。

 例えば「失うこと」であれば、そこへの向き合いかたは「受け入れる」「悲しむ」「取り返す」など、色々である。今年読んだ諸作品でも、登場人物たちは「喪失」に対してさまざまな対応をみせる。そこから得られる印象や学びは、決して「所詮は物語」といって軽く流すことができないものだ。小説という形式の力を再確認する1年でもあった。

 

立原正秋『冬の旅』新潮文庫

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 今年読んだ本、ひいてはここ数年で読んだ本の中でもトップ10に入るぐらいには印象に残った。

 義兄・修一郎を刺して少年院に送られた少年・行助を支点として、さまざまな人物の行動、思想が交錯する群像劇のような作品で、かつ600ページ超の長編ながら煩雑さもなく一気に読み進めてしまった(この読みやすさについては、もともと新聞連載の作品であることも大きいと思う)。

 非行とは、罰とはなんなのかといったわりと根源的で手ごわいテーマをバックに据えつつ、どこか温かな手触りのある日常描写が要所要所に入っていたりもして、そのバランス感も絶妙。

 基本的には傲慢で卑劣な人物として描かれる修一郎に対する作者の目線が、単に厳しいだけのものではないことも興味深いポイントだった。恐らく行助とともに修一郎にも作者自身の人格が投影されているのだろう、と解説には示唆されている(p.635)。

 連載当時から根強いファンがいた作品らしい。とある魅力的な登場人物が作中で死亡した際、その人物をえらく気に入っていた居酒屋の主人が「なんであんなにいいやつを殺すんだ」と立腹して立原を出禁にしたというエピソードが面白かった(p.637)。

 

安部公房『けものたちは故郷をめざす』岩波文庫

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 終戦直後、満州から日本をめざす男・久木久三の話。安部公房の作品のなかでは比較的初期の作品で、「解説」のキーワードを借りるならば、登場人物の哲学的な思弁や物語を離れた散文などはみられない。『砂の女』のざらついた不気味さや『人間そっくり』のブラックユーモアも、まだない。公房作品のなかでは(結果論ではあるが)異色な部類に入るかもしれない。

 厳寒の大陸における壮絶な旅路のシーンが大半を占めるが、一度読み始めるとなかなか止まらないのは圧倒的な筆力のなせる技だろう。公房本人は本作を「地味」と評していたらしいが、いや、そんなことはないだろう……とつい思ってしまう。物語の終盤に至るまで、久三の前に立ちはだかるのは祖国(=日本)との絶望的なまでの距離。その距離は物理的なものでもあり、精神的なものでもある。戦後という時代において、教科書には書かれないが確かに存在した、幾つもの自我の危機を思う。

 

太宰治『惜別』新潮文庫

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 新潮文庫版は表題作と「右大臣実朝」の2作が収載されている。

 源実朝、というと昔受けた日本史の授業でちょろっと名前が出てきただけの存在である。しかもその扱いと言えば「文学や芸術にウツツを抜かしていて武芸に疎く、勘違いで殺された残念な人」とか、そんなだったような記憶がある(しかし今考えれば、それの何が悪いのか、とも思う)。多少前提知識がないと難しいとは思うが、歴史小説としてはけっこう親切な気がする。ひとつの芸術観を学ぶ体験として非常に面白かった。

「惜別」は魯迅と、その同級生の日本人医学生の話。戦時中に国から依頼を受けて書いた作品ということで、他の太宰作品とはかなり毛色が違う(世に出たのは戦後すぐ)。執筆経緯や内容についてはやはり賛否が分かれているようで、それもわかる。が、当時の文学者が置かれた状況下を考えると、最大限太宰個人の思想を表現した作品にはなっているのじゃないか、と思う。魯迅「藤野先生」も同時に読むと解像度が上がる。

 

山川方夫 日下三蔵編『箱の中のあなた』ちくま文庫

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 山川方夫は短編集や戯曲の台本は読んだことがあるものの、ショートショートは未読だった。というか、「ショートショートの名手」と言われていることすら浅学にして知らなかった(山川作品って結構最近まで絶版・品切ればかりだった気がするのだが、最近になってリバイバルが来ているんだろうか。このちくま文庫版も昨年末に出たばかりのものだ)。ショートショートというだけあってサクサク読めて、シンプルに面白い本だった。サキの短編のようなドロッとしたエグ味のある読後感のものも良いし、淡いペーソスが彩る滋味深い作品もある。

 巻末には星新一都筑道夫との対談記事が載っているのだがこれがまた面白い(3人の対談のはずなのだが、進行役の編集者がまあよく喋る。しかしこの編集者が知識ある人物のようで、勉強になる)。山川はショートショートを2つに分け、それぞれ「風俗コント」と「『奇妙な味』系列」と表現している。そして、後者の方をより面白いと感じるのだそうだ。

 また、この文庫版の表紙イラストも個人的にはかなり好み。

 

川上未映子『黄色い家』中央公論新社

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 小説のもつ力、ひいては「自分にとって小説という形式が必要な理由」を強く感じる作品というものにときどき出会うが、本作がそうだった。

 「金」に引きずられて狂っていく人を描いた作品、と一言でいえばそうだが、人物の設定や状況、背景を含め、情報量はかなり多い。

 とりわけ人物の設定が丁寧だ、と思う(昨年『夏物語』を読んだが、その際も同様の感想を抱いた)。今作の登場人物は社会的、経済的な困難を抱えた(もしくは抱えた経験のある)女性が多く、私が普段ボンヤリと生活しているだけでは想像することすらしないであろう世界が描かれる(私は男性で大卒で、正規雇用だ)。そうした世界があるということを意識することができる、というそれだけでも私はこの小説に出会った意味があると思う。

 その場面の明るさや温度感までもが感じられるような情景描写も好きだ。

「冷たい風が私と蘭のあいだをひゅうっと駆けぬけていった。じゃあまた、という感じでわたしは笑い、蘭も、腕を組んで前屈みにした全身を、手をふるみたいに揺らしてみせた(p.109)」

 

ブレイディみかこ『RESPECT』筑摩書房

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 ブレイディみかこさんは『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』などのエッセイや論考でよく名前を見かけることがあり、実際にそれらの数冊を読んだことがあった。小説作品を読んだのは今回が初めて。

 「ジェントリフィケーション」という言葉が日本でもリアリティをもつようになってしばらく経つが、この小説はイギリスでのジェントリフィケーションとそれに抗する市民の姿を描いている。ちなみに実話がベース。

 主題は上記のとおりながら、合間合間に挟まれる小シーンや登場人物の属性などに広範なトピックが織り込まれており、情報量は多い。多様な課題を内包したまま、経済的な困難を抱える人やマイノリティを飲み込んでいく社会の姿が明確に描かれている。

 最終的に前向きな終わり方ではあるものの、ジェントリフィケーションの抱える問題の根深さや(日本を含む)世界がこれから直面する壁について読み手にしっかり認識させるつくりになっていて、月並みな言い方になるがとても勉強になる小説だった。

 あとNAKAKI PANTZさんの装画がめちゃくちゃいい。

 

高橋和巳『悲の器』河出文庫

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 某名門国立大学の法学部長という地位にある人物・正木典膳があるスキャンダルの当事者となり、転落していくという筋書き。登場人物の個人的なトラブルから始まる物語でありつつ、戦後の権威ある知識人を取り巻く他者との関係性、ひいては世間体や大文字の社会といった他者的相対とのstruggleが描かれていく。

 かなり硬い手触りの文体でありながら、つい先へ先へと読み進めてしまう推進力がある。台詞回しによる人物の機微の動かし方が巧妙である。素人目には、法学の知識・考え方が多少なり要求されるような箇所もあるが、高橋は法学専攻ではなかったというのもすごい。これが作家のデビュー作であるというのもさらに驚きだった(担当編集者はかの坂本龍一の実父、坂本一亀だったそう)。

 正木典膳のジェンダー観・家族観については流石に時代を感じざるを得ず、作家自身はその辺りについてどのような考え方でいたのかが気になるところだったが、それについては巻末エッセイ(松本侑子)に考察が載っている。こういうのがきちんと載っているのは文庫版のありがたみである。

 

田畑修一郎 山本善行撰『石ころ路』灯光舎

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 灯光舎「本のともしび」シリーズより。この作家の作品を読むのは初めてである。主に昭和初期に作品を発表した人で、当時の文壇で存在感を増していたモダニズムプロレタリア文学とは一定の距離を保っていたらしい。

「伸夫が生れたそのちっぽけな街は、土地の人間だった間中とてもつまらない嫌な所だったが、町を出てしまって十年近くになり、殆ど緣故もなくなった今では、記憶の中でしだいに特色がある町のように思われて來たし、美しいと云うのはあたらないが、少くともそれに近い或る風趣を持っていることに氣づくようになった」(p.81、「あの路この路」)

 この部分が、最近自分が出生地に対して思っていることと重なって、志村正彦風にいえば「なぜか無駄に胸が騒い」だ。小説を読んでいて自分の心情と重なる部分に出会ったときに感じる種の高揚は何にも替えがたい。

 「本のともしび」シリーズにある程度共通して、喪失や死をテーマにした作品が収められているが、暗く重い雰囲気というよりは穏やかな寂しさを強調した文調である。そこもこだわって撰出しているのだろう。

 

村上春樹螢・納屋を焼く・その他の短編新潮文庫

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 村上春樹再読の流れ、継続中。この作品は、昨年の末にアジカンのゴッチさんがブログ「ドサクサ日記」で取り上げており、そういえばまだ読んでいなかったなと思って買ったのだった。そして8月まで積んでいたということになる。

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 「ドサクサ日記」では、坂本龍一の最後のコンサートについて語られており、連想される文学作品として『螢』とカズオ・イシグロの『Never Let Me Go』が言及されていた。キーワードとしては、「喪失の痛み」「死との距離」といったあたりになるだろうか。『螢』の作中に「死は生の対極存在ではない。死は既に僕の中にあるのだ(p.31)」という一節があるが、これは「作品」と呼ばれるものを作ることを生業とする人々、つまり芸術家にとって多少なりとも意識されることなのではないだろうか(作品は作者自身の生・死を超越して存在しうるので)。

 個人的には、村上春樹作品は長編よりも短編が印象に残ることが多い。本作に収められた他の作品では、『踊る小人』が好きだった。

 「僕の手や足や首は、僕の思いとは無関係に、奔放にダンス・フロアの上をまった。そんな踊りに身をまかせながら僕は星の運行や潮の流れや風の動きをはっきりと聞きとることができた(p.119)」

 そういえば、最近はダンス論の本を探している。

 

山本善行撰『上林暁 傑作小説集 孤独先生』夏葉社

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 久しぶりに本の「ジャケ買い」をした。装丁・櫻井ひさし、絵・阿部海太。濃い青の色調の絵を全面にあしらい、表題等は銀の箔押し。ハードカバーながら新書版サイズという珍しい判型も面白い。とにかくビジュアルからして独特な雰囲気を纏った1冊で、手にとって眺めているだけでも気づけば5分ぐらい経つ。タイトルが『孤独先生』というのもこれ以上ないマッチングだろう。

 上林暁も今回が初読の作家。高知を故郷とする小説家で、特に私小説をメインジャンルとしたそう。すぐれた私小説を読むといつも感じることなのだが、一人の人が個人的な体験や思想を書き連ねたものが、どうしてこれほど面白く、印象に残るのだろうと思う。本作でも、『天草土産』や『淋しき足跡』で描かれる野や山、海の情景、また登場人物の顔つきまでもが生き生きと描写されていて、それだけならそういう書き方が上手いんだというだけの話なのだが、なかなかどうしてそれらが自分自身の記憶のどこかとリンクして強い印象を残す。

 自分の記憶や体験とのリンクという意味ではちょっと弱いのだが、単純に話として好きなのは『二閑人交遊図』。瀧澤兵五と小早川保という2人の閑人(実際には閑人というほとヒマではないと冒頭に但し書きされているが)が、酒を飲んだり釣りをしたりする話である。なんということもない話のはずなのだが、いい年の大人ふたりがまったり遊んでいる情景はどこかほっとする。

 

●ガルシア=マルケス 鼓直 木村榮一訳『エレンディラサンリオ文庫

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百年の孤独』のガルシア=マルケスの短編集。今はなき文庫レーベル・サンリオ文庫からの刊行。

 「大きな翼のある、ひどく年取った男」と邦題のもとになっている「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の2篇が特に好き(しかし後者、ものすごいタイトルだな)。前者は、尊崇すべき存在であるところの天使がみすぼらしい老人として描かれている点にまず意外性を感じた。

 収録されているどの作品も、なんらか幻想的な空気を漂わせている。一方で、登場する人々の(よく言えば)人間らしさ、(悪く言えば)どうしようもなさには妙にリアルな手触りがあり、これらの作品が単なるファンタジーでないことを思い出させてくれる。

 文章の言い回しや場面展開にはコミカルな部分もあるものの、やはり一貫して扱われているテーマは人間が抱く孤独、あるいは孤独にまつわる一側面であると思う。読後感は決してスッキリしたものではなく、一抹の寂しさも覚える。しかしそれでもこういった作品に触れたくなる瞬間がたしかにある。

 

●ルイ・ズィンク 黒澤直俊編『ポルトガル短編小説傑作選』現代企画室

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 去年より、ポルトガル語圏における「サウダーデ/サウダージ」という概念について勉強したくて、ポルトガルやブラジルの文学をいろいろ探している。

 編者ルイ・ズィンク氏は本作序文において「われわれは『遅れた国』だった。二十世紀のもっとも長い独裁政権が支配していた。われわれは流動的な民でもある−−柔軟でざっくばらんで好奇心が強い。あなたのようにだ、日本の読者よ」と語る。ポルトガルの歴史や文化についてもっと勉強してから、また読み直したい。

 イネス・ペドローザ「美容師」とドゥルセ・マリア・カルドーゾ「図書室」の2篇が初読時のフェイバリット。前者は近現代のポルトガル(ひいてはヨーロッパ)における女性の生について、後者はポルトガルが参戦した戦争と、同時代の教育について、学びの扉を開いてくれた。

 

カズオ・イシグロ 飛田茂雄訳『浮世の画家』中公文庫

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 今年もカズオ・イシグロを。『浮世の画家』は現在、早川書房から文庫が出ているが、今回読んだのは経堂のゆうらん古書店で入手した中公文庫版である。

 軍国主義時代に戦意高揚のための絵画を描き、名声を得た画家・小野。戦後の経済的・文化的な転換期のなかで、戦時中の自身の過ちを受け入れながらも自身のアイデンティティの置き場所に悩む。

 イシグロ作品の特徴である一人称視点と、それに伴う「信頼すべからざる語り手」化がこの作品でも効果的に発言している。(これもまたイシグロ作品の特徴である)ある種淡々とした、一見冷静に見える語り口はしかし、語り手の感情と連動して揺れ動いており、そこに人間らしさが担保されている。

 時勢に身を任せ、多くの人間関係を切り貼りしながら耳目を集めてきた芸術家をしかし、俗物と断罪できるだけの度胸も私にはない。自身が同じだけの権威と技術を手にしていたとき、どう行動するだろうか? きっと小野と同じように悩むのではないか。

 しかし、改めてイシグロが英語で執筆する作家であることをつい忘れるぐらいには、文体と翻訳が(日本を舞台とした小説として)自然だった。

 

●アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ 酒寄進一『雨に打たれて』書肆侃侃房

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 吉祥寺・百年で見かけてからずっと気になっていた1冊。筆者は年代的・ジャンル的にはロストジェネレーションに分類されるそうだが、非英語圏、かつ男性でない書き手によるロスジェネ作品は今回初めて読んだ。筆者はスイス人の写真家だ。

 作品の主な舞台は1930年代の中東諸国で、当時のこの地を取り巻くヨーロッパ大国とその植民地の関係性を勉強しながら読んだほうが、設定の妥当性などがよりよくわかる(逆に、勉強しないとちょっと難しくて置いていかれる)。外部からの訪問者として客観的に中東での生活を描写しながらも、旧来的なヨーロッパ型価値観に対する批判的ステートメントとしての性格も持ち併せた読み応えのある文章だった。

 フランス軍所属のアルジェリア人将校と恋人のヴァランティーヌの関係を描いた「別れ」、ジャーナリストのカトリーン・ハルトマン男爵夫人の肖像「女ひとり」がフェイバリット。

 

アントニオ・タブッキ 須賀敦子訳『供述によるとペレイラは……』白水社

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 イタリア人作家・タブッキによる、WWII前夜のポルトガルが舞台の小説を須賀敦子の名訳で読む。名著というほかない作品だと思う。

 (特に日本で)WWIIの勉強をしていてもポルトガルはなかなか目立って出てこないように思うが、そこにも確かにファシズムが暗い影を落としていた。南欧の明るい街並みと甘いレモネードに対比するような、忍び寄る言論弾圧の波が文章に独特の緊張感をもたらしている。

 困難な状況下での人間の思想・信条の揺れ動きを描いた作品ではあるけれども、一方で人間という存在への確かな信頼も垣間見える。

 

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー 野崎孝訳『フラニーとゾーイー新潮文庫

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 自分とごく親しい人が、サリンジャーについて次のように語っていた。「サリンジャーは10代の頃に読んでも、あまりピンと来なかった。20代でもう一度読んでみたら非常に面白く、スッと入り込んできた。30歳を過ぎてまた読んだら、やはりそんなにピンと来なかった」。もちろん1人の読み手の感想なのでそう真に受けるものでもないのだが、確かに高校生の頃にサリンジャーにトライしたときはそこまでハマらなかった。だから、20代も半ばを過ぎた今のうちに読んでみようという魂胆である。

 なるほど、明らかに昔読んだときよりも面白かった。自分自身が大学を出て、友達や家族という存在について一応真面目に考えて……という経験を経たことで、作中の「わかりみ」ポイントが増えたのだろう。そういう人生経験をそれなりに積んで、かつ登場人物と年齢が近い状態で読むとバチっとハマる作品なのかもしれない。

 文体に関しては、挙動や手癖を表す描写が細やかで、そこから人物の性格までも読み取れるようになっているあたり、ある意味で映像的な文章だな、と感じた。

 

●ハン・ガン 斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』河出文庫

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 「儚くも偉大な命の鎮魂と恢復への祈り」と、背表紙には記されている。

「祈る」ということは、力強さと所在のなさという、一見して相反する2つの要素を同時に備えた特異な行為であると個人的には考えている。そんな「祈り」を言葉で表現した創作物は、自分にとってある意味で特殊な光を放つ存在である。

『すべての、白いものたちの』は、歴史のタイムラインに記されない個別的な喪失(作者の姉の死)と、より大きな、歴史的意味を付与された喪失〜再生がクロスして語られる、小説のような散文詩のような作品である。ここまでで何となく察しがつくことだろうが、一言で説明するのは難しい。

 一段落目で「特殊な光」という掴み所のない表現を使ってしまったが、それではこの作品がどんな光を放っているかというと、小さな白い光である。タイトルに引っ張られているのではないかと思われるかもしれないが、この作品に収められた文章たちはたしかに白い。直感でそう思っている。この白さが一体なんなのか、何がそう感じさせるのか。その答えにもう少し近づくために、時を措いて再読するつもりである。

 

●キム・ジュンヒョク 波田野節子/吉原育子訳『楽器たちの図書館』CUON

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 音楽のことを本で読む、というのはいつになってもいくらか不思議な気持ちになるものである。とくに実際に楽器を弾いたり、日頃から音楽を聴いたりする身にとっては。

 韓国文学を何冊か読んできた印象として、書き手のポリティカルなスタンスや問題意識が明確であることが1つの特徴であると感じてきたが(それはもちろん大切なことだ)、本作はそのような雰囲気から少し離れ、生活のなかでシンプルに音楽を愛好し、じっくりと向き合う人物の姿が描かれている。実際に、この作品が生まれた背景には韓国の高度経済成長があるという(訳者あとがき p.338)。むろん8篇の作品がこの世界の抱える問題から目を逸らし、蔑ろにしているわけではないが(でなければ零細デザイン事務所の社長が家賃を滞納したりしないだろう)、それと並行して紡がれる音を表す言葉が強く印象に残る。

 「ボールから抜けだした音は上に伸び、木の枝のように幾枝にも分かれて、音の実をつけていた」

 「社長と僕とコ・シニ氏は、丸テーブルの中央に生えた、目に見えない木と、木の枝に実って下に落ちてくる音を静かに見守った」(「マニュアルジェネレーション」、p.77)

 

●キム・チョヨプ / カン・バンファ ユン・ジヨン訳『この世界からは出ていくけれど』早川書房

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 先日、久しぶりにスマホでゲームをした。「refind self」というゲームで、AIを実装したヒューマノイドである主人公を操作し、ゲーム内の行動からプレイヤーの潜在的な性格を診断するというもの。結構面白かった。本ゲームのキーパーソンとして、人間である「博士」という人物がいる。

 この短編集を読んでいるあいだ、なんとなく上記「refind self」の設定を思い返すなどしていた。意思を持った機械たちの革命の結果、滅亡しつつある都市を人間が訪れる「最後のライオニ」、遠い昔に起こった事故から数百年ぶりに目を覚ました「原型」人間・ジョアンと、進化を遂げた現代の人間であるダンヒの交流を描く「ブレスシャドー」……。いずれも、人間とそうでない者、あるいは多数派とそうなれない者との接近が物語の起点になっている(さらに共通する主題は、「この世界からは出ていくけれど」、つまり現状彼らがいる時間や空間からのエクソダスである)。

 AIが十分身近になっている今、こうした設定はフィクションから現実に近づいてきつつある。そういった意味で、この短編集もあくまでSFというジャンルではありつつも、こうしたエピソードがいつかどこかで起こりうるのではないか? という不思議な距離感を感じさせてくれる。

 こちらの装画はカシワイさん。とても好きな絵を描かれる方。

 

●ハン・ガン 斎藤真理子訳『回復する人間』白水社

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 「痛みがあってこそ回復がある」と帯に記されている。ということは、前向きで明るい物語が本作には収められているのかというと、そう言い切ることは難しい。本作に収録されている物語の主人公が経験する「痛み」には、肉親の死や、再起不能な重傷などきわめて重いものが含まれる。そこからどういった過程で「回復」していくのか、あるいは何をもって「回復」とするのか。それらの答えは物語によってさまざまである。

 足の火傷の治癒と、姉との死別からの心の整理を重ねて語られる表題作「回復する人間」、クィアの生と結婚制度の陥穽に、社会運動のトピックまで織り交ぜて描かれた「エウロパ」の2本が特に印象的だった。

 「これはいったいどこで『回復』しているんだ…?」というぐらい終わり方に救いがなく、そういう意味で印象に残った作品(「左手」)もあった。時期をおいてまた読んでみると感想が変わるかもしれない。