岩波文庫多めの月だった(単にたくさん積んでいるため)。あと、海外文学も5冊ある(海外作家もたくさん積んでいる)。
夏はより少し、幅広くいってみようと思う。
●アンドレ・ブルトン巖谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫
大学時代に受けたとある講義がきっかけで『溶ける魚』というタイトルを聞いて以来、ずっと気になっており、数年前にはついに入手したにもかかわらず、実際に読むまでにやたら時間がかかってしまった本。
『シュルレアリスム宣言』は正直に言って、今の自分の知識では十分に理解したとはいえない難しい文章だった。「真の自由」を目標としていることはわかったけれど。あと、「狂気へのおそれから、私たちは、想像力の旗を、半旗のままにしておくわけにはいかないだろう(p.12)」という一文は、何がとははっきりいえないがカッコよかった。
シュルレアリスムで用いられた技法である「自動筆記」で描かれた小説である『溶ける魚』、こちらは(なぜか)面白く読み進められた。風邪を引いたときに見る夢のような幻想感と言語の羅列のなかに、突如として現れる綺羅星のような表現。それに出会う瞬間の気分の高揚は他のジャンルではなかなか得難いものがある。
「魔法がおわったとき私たちは地に足をおろした。薊の雨に案内されて、私たちはランデヴーの家の敷居を跨いだが、太陽の兎の大きな毛皮をこわごわ遠ざけないでもなかった(p.164)」
●尾形亀之助著西尾勝彦編『カステーラのような明るい夜』七月堂
コロナ禍となってから最初の1年が過ぎたあたり、精神的にかなり疲弊していたころに出会った、大切な思い入れのある本である。にもかかわらず、それから長いこと本棚に眠らせたままにしてあったため、ふとまた手にとってみた。
宮澤賢治も寄稿した詩誌を主宰するなど、生前は積極的な文学活動を行なっていたようだが決して文学史のなかでも著名な存在ではなく、私自身この詩集によって初めてその名を知った人物である。
一編一編が短く、素朴な語彙で書かれた詩が特徴的で、事実この1冊を読み切るのにはそう時間はかからない。しかし、読むのに要する時間が短いことは、その内容から得られるものの総量とは必ずしも比例しないということをこの本は教えてくれる。
「窓を開けても雨は止むまい 部屋の中は内から窓を閉ざしている(p.54「雨」)」
「空は見えなくなるまで高くなってしまえ(p.66「愚かなる秋」)」
日本語の基礎的な語彙を使いつつもその並び順を巧妙に操作することで、独特の「引っかかり」やユニークな響きが作り出されており、面白い。
今春から時々お邪魔させてもらっている読書会の課題図書になったため再読。再読とは言ったものの、前回読んだのは5年以上前の学生時代で、内容も忘れている部分が多かったためほぼ初読と言っていい。
語り手の「ぼく」と、「すみれ」と「ミュウ」の2人の女性を中心として進んでいく物語で、主な舞台は東京とギリシャとなっている。
個人的な話をすると、自分は村上春樹の小説を作品としては面白いと思いつつも、登場人物に感情移入することはほぼ全くできたことがない。それは人物が女性、男性のどちらであっても、である。どうも倫理観というか、人間関係観がズレているように思えてしまって。
それゆえに、読書会というかたちで色々な人の感想、特に「ぼく」に共感をもって読んだという人の感想を聞けたことは自分にとっても大きな体験だった。基本的に本は一人で読むものだと思っていたけれど、何人かで同時に読んでその時々の印象を共有し合うというのも非常に面白いと思えた。そんなこともあって、最近はしばらく離れていた春樹作品をまた手に取ってみている。
タイトルのとおり、室生犀星の筆による「女性」を主題とした随筆集。
さすがに昭和初期に男性が書いたものだから、ところどころに時代的な感覚の古さを感じさせる部分はあるものの、基本的には異性への(ひいては人間への)リスペクトを欠かず、筆者自身の感覚と真摯に向き合って書かれた文章であるように思う。
「妻が米を炊いて家で夫を待つということも、ばかばかしいしきたりである。二人で食べものは作ったらいいじゃないかということになる。(中略)何でも男と女のふたりでやって行けば経済力の独立みたいなものに、ふだんのしきたりまでが同じ寸法になるのだから、そこに無理をおしとおすこともなくなるであろう(後略、p.153)」
この内容を、戦後10年も経たないうちに既に言っている人がいたということに少し驚く。実際のパートナー生活をどうするかは個々人の相談と同意のうえ自由にされるべきだと思うけれど、シンプルに当時の「常識」を解体して新しい可能性を提示してみせる慧眼と書きっぷしに敬意を覚える。
トラウマ研究やジェンダー・セクシュアリティの研究に従事する筆者のエッセイ集。タイトルにあるように精神的な「傷」を受容するということについて語っている。
印象的だったのはp.26、「水の中」。ダイビング中にマウスピースを離してしまった筆者が生死の境を彷徨った経験が書かれている。そのとき、生命維持装置を失った状態で水面に向かおうとしていたときに感じていたのは恐怖や死への不安ではなく、「喜び」あるいは「解放感」であったという(決して「死にたかったわけではない」という補足がある。いわゆる臨死体験の一環としてそういった感覚が生まれることがあるのだろう)。
全編をとおして、虚飾のないストレートな文章であると感じた。それはときに、筆者自身の属性、すなわち「教授のうえに医者で、ハーバード大学に留学経験があって博士号ももっていて、本もいくつか出していて(中略)しかもオンナで……(p.76)」という「持てる者」としての側面がダイレクトに顔を出すものでもある。しかし、この本に於いてその文体は必要なものなのだろうと思う。
●季刊『銀花』編集部編『"手"をめぐる四百字』文化出版局
作家や写真家、芸人、噺家が、「手」というテーマに沿って400字の原稿を寄せるという企画。実際に400字詰めの原稿用紙に自筆したものをスキャンして収録するという面白い仕立てになっている。個人的に人の手書きの文字を見ることが好きなので、じっくりと、しかし一気に読み通してしまった。
字の形でいうと、柳美里さんの字と久世光彦さんの字が好きだった。スラリとした右肩上がりで、ときに字と字をつないで流れるように筆記に憧れる。
言語、殊に文字というものは基本的に右利き用にできている。漢字の書き順や英字の筆記体は、右手で書いたときに合理的に、美しく書けるようにうまく設計されている。自分は左利きなので、なんとなく無骨な、ごろんとした文字を書いてしまう。今となってはそれも愛せるようにはなったが。
この本の筆者のなかにどのくらい左利きの方がいるかはわからないが、まあ右手で書かれた方がほとんどだろう。右手で書き、かつ言葉を生業としてきた人々の、長年の経験を湛えた文字というのは届こうにも届き難い魅力を感じてしまう。
●池上岑生編訳『フェルナンド・ペソア詩選ポルトガルの海』彩流社
文学作品の特徴というのは色々あって、それは例えばある時代の状況を切り取った「時代の証人」としての特徴だったり、一方でどんな時代にも通用するある種の「真理」としての特徴だったりする。そういった意味で、ペソアの試作品はまぎれもなく「20世紀初頭のポルトガル」という背景に裏付けられていながらも、なにか遠い国の物語であると割り切れもしない親近感がある。言い換えれば、広い意味での現代人のイシューを的確に描いているのだろう。
自由になれぬまま
闇のなかを風が荒れ狂う
ぼくは思考から逃れられない
風が大気から逃れられないように
(p.28、「闇のなかを」)
ちなみにペソアは「アルベルト・カエイロ」「リカルド・レイス」「アルヴァロ・デ・カンポス」、そして本書には載っていないが「ベルナルド・ソアレス」という異名を使用していた。これらは決して「筆名」や「ペンネーム」ではなく、それぞれに別人格をもった他人という設定であったらしい。
長田弘氏の文章は主に評論、随筆で触れたことがほとんどで、詩はあまり読んだことがなかった。まとまった詩集を手に取ったのはこれが最初かもしれない。なのに『最後の詩集』。タイトルどおり、作者が他界する直前に自らの手で編纂した詩集とのこと。
柔らかな印象を与える口語で、リズミカルに短い言葉を並べていく書き方が特徴的。一方、抽象的・普遍的な情景を描いているかと思えば、突発的に現れる固有名詞によって解像度がぐんと上がったりして、意外にスリリングでもある。
一貫して自然への敬意が描かれているようにも見える。
「人のつくった、建築だけだ、
廃墟となるのは。
自然に、廃墟はない。(p.17)」
しかしながら、安易な人間批判に陥ることがないところも好きである。
「悼むとは、死者の身近に在って、死者がいつまでも人間らしい存在であれとねがうことだった。(p.37)」
そして言語、書物への愛。
「昔ずっと昔ずっとずっと昔
朝早く一人静かに起きて
本をひらく人がいた頃
その一人のために
太陽はのぼってきて
世界を明るくしたのだ
茜さす昼までじっと(p.64)」
いろいろな物事へのリスペクト、愛の集大成としてこの詩集は編まれたのかもしれない。
有名な『外套』を読んだ。こんなにも救いのない、可哀想なお話なんだ……。とちょっと驚いてしまった。言ってしまえば上げて落とされて終わる、そんなストーリー。一応教訓めいたものはあるものの、物語というものになんらかのカタルシスを求める癖がついた現代エンタメに染まったミレニアル最終世代にはピコピコハンマーで頭を殴られるぐらいの衝撃はある。
しかし、独特のユーモアセンス、言うなればボケとツッコミのバランス感覚が文章全体にある種の小気味よさを与えていて、寒々としたオチながらも読みやすく、追いやすい。
写実主義的な書き方のためかやたら解像度が高いのにどこかしら間の抜けた短編『鼻』も面白い。
ゴーゴリの作品はその後の近代ロシア文学の出発点となったらしい(ロシア・リアリズム)。ロシア文学も奥が深いうえ、重厚で長大な作品が多いので(ドストエフスキーとか)、なかなか時間がとれず敬遠してきた部分がある。せっかくゴーゴリを読んだので、これを機に有名な作品を読んでみるのもいいかもしれない。『罪と罰』は持っていたはずだ。
空海の思想の基本系である「風雅・成仏・政治」を、日本思想の理解のためのものさしとして据えることを試みた本。……らしい。
空海については初学に近い自分にとっては、かなり難解な本だった。予備知識がそれなりに必要なのと、本そのものの構成をある程度理解しておかないと話があっちへ飛びこっちへ飛ぶ(ように読めてしまう)ため、急に思い立って読むものではなかったかもしれない。
とはいえ、タイトルが『空海と日本思想』でありながら話はプラトンから入っていくというのが衝撃的で、とっかかり自体はかなり面白かった。少し勉強しなおしたあとにもう一度トライしたい。
本居宣長って結局何をした人なん、というのがよくわかっていなかったので読んでみた。宣長の生涯を時系列で追い、年代ごとにテーマをつけて章立てしてあるのでとても読みやすく、単なる伝記でも教科書でもない「新書」としてバランスの良い仕上がりになっていると思う。
国学者として、大陸や半島から輸入された思想体系を批判し、日本古来の「もののあはれ」を知ることを是とした人だが、前提として仏教や儒教などの文献をしっかり読んで理解したうえで批判の遡上にあげているあたり、ただシンプルに「国産じゃなきゃダメです」と言い張っていただけの人ではないことがわかる。
また、基本的にいわゆる「思想家」だと思っていたが、文学も重要な関心ポイントであったというのも改めて知った。
19世紀以降の神道を理解するためにも宣長の思想体型はキーになると思った。最近ちょいちょい神道に関する知識がほしいなと思っているので、この本の記憶を忘れないうちに別の本も読んでみたい。
●ジョゼ・ルイス・ペイショット木下眞穂訳『ガルヴェイアスの犬』新潮社
不思議な読後感を残す作品だった。作家の故郷でもあるポルトガルの小さな村・ガルヴェイアスに突如墜落した巨大な物体。その落下物の影は早々に薄くなっていき、物語は村人たちの生活や色々な人間関係に焦点を移していく。しかし最後には、「そして誰もが名のない物のことを思い出した。犬たちは別だ。犬たちが忘れたことはなかったからだ(p.265)」と、村人たちが名もない物=落下物のことを思い出すシーンで終わりに向かう。犬たちは、落下物のことも、落下物によって村の匂いが変わったことも忘れていなかった。
「記憶」と「名前」が重要なファクターになっている作品かな、と感じた。作中で語られる村人たちの数々のエピソードは、なんでもない日常生活の繰り返しの切り取りのようだけれどそれはそのまま誰かの記憶として残る。また、登場する人物や場所には具体的な名前が割り振られており、想起されるシーンや状況も限定的なものになる。しかしながら、「地名を特定して実在の名称を詳述し土地特有の色味を濃くした物語は、かえって普遍性をもたらすはずだ(p.282)」と本人が思ったとのこと、確かになぜかそれぞれのエピソードにはどこかで聞いたような親近感がある。イザベラとファティマかあさんの話が好き。