プールに行きました

 半年ぐらい前から、プールに通おうかなという計画、というか曖昧な構想を立てていた。社会人になってはや4年、明らかに運動不足だった。まあ高校に入って文化系の部活に入って以来、これといった運動はしていないから高校+大学の7年を足してもいいのだけれど、やはり10代と20代では代謝というものが違う。「食べても太らない」を自称していた私だが、間違いなく24を過ぎたあたりから太っていた。

 とりあえず、兼ねてからの腰痛の解消も兼ねて筋トレはやっていたが、やはりそれに加えて有酸素運動がほしい。しかしランニングはあまり得意ではない。となると次なる候補は水泳だった。水泳は小学校時代に習っていたということもあり、少しは自信があった。

 

 というわけで本日、野菜サラダと蒸し鶏の朝食を食べ終えた私は、超久しぶりに水泳用具一式を用意して区民プールに足を運んだというわけである。

 まー気持ちよかった。泳ぐこと自体5〜6年ぶりだったが、身体は覚えているもので、問題なく25m往復を泳ぎ切ることができた。とはいえ代謝が落ちて肉がついた体ではあるので、持久力という意味では限度がある。休み休み、合計300mほど泳いだところで今日は切り上げた。

 しかしなかなかいいアクティビティである。公営とはいえ屋内・温水ということで快適な環境であり、季節を問わず無理なく続けられそうだ。これは日常の運動に組み入れるべきだろう。

 

 それにしても、朝飯にサラダを食ってプールでひと泳ぎするって、なんだか村上春樹の小説に出てくる男みたいだな。それも私立大学の文学部を出た編集者で、ニュータウンに実家があって、30代の扉がうっすら見えた20代後半で、独身ときている。似ていないのはこれといってモテないこと、行きずりに既婚者と寝ないことぐらいか。まあそんなことは似なくていい。

 

 折角なら今日1日ぐらい寄せ切ってやろうと思い、昼食はパスタを茹でることにした。春樹作品の男の人ってなんかパスタ茹でがちじゃないですか?

 とはいえ、夕方から用事もあったので、時短のためにパスタソースは市販のものを使った。バジルと赤ワインをちょっと足してアレンジする。パスタを茹でながら、そういえば春樹作品の男たちってソースどうしてたっけな、と考えた。何か明確な描写あったかしら。−実のところ、それはどうでもいいことではあった。そのときの私にとって重要だったのは、パスタを茹でるという行為・・・・・・・・・・・・だったのだから。

 

 即席パスタを食べ終えると、私は用事を2件ほど済ませに外へ出た。

 

 

 用事を済ませて自分の部屋の玄関を開けた瞬間、ぎょっとした。見知らぬ男が部屋の真ん中に鎮座していた。

 ほんの数秒の間にあらゆる可能性を考えた。第一に、ぼくが部屋を間違えたという可能性。これがいちばん現実的だが、キッチンに無造作に積み上げられた食器類は、ここがまぎれもなく僕の部屋であるということを指し示していた。ほかにも、ぼくの部屋になんらかのトラブルがあって不動産関係者がやむを得ず入室したとか、どこかで誰かがぼくの名義で多額の借金をしていて、金融機関の人間が差し押さえにやってきたとか、色々なことが考えられた。しかし、その男の様子はそうした可能性すべてを否定している・・・・・・・・・・・・・・・・・ように見えた。

 

 「こんにちは」と、こともなげに男は挨拶をした。

 「こんにちは」と反射的に返してしまってから、また数秒かけて男の姿を観察した。チャコール・グレーのスーツを着ているが、いかにも急拵えといった風でサイズが合っていない。袖が余りすぎて、親指の付け根に被さっている。口元と顎には髭を生やしていたが、その髭も、言わば30がらみの童顔の男が実年齢よりも顔が幼いことを隠すために生やすそれのような、整いのないそれだった。とにかくあらゆる点において締まりがなく、不釣り合いな姿だった。

 

 「失礼ですが、どちら様でしょうか」ようやく口をついて出た言葉はそれだった。

 男は、なにがわからないのかがわからない・・・・・・・・・・・・・・・・といった表情をほんの一瞬浮かべたあと、微笑んで言った。

 「申し遅れました。ぼくは天使です」

 

 面倒なことに巻き込まれたな、と思った。こういう・・・・人間と会話を続けてしまうとより事態が面倒になるかとも考えたが、なぜかそこでしかるべき機関-それは例えば警察などだ-に連絡を取るといった発想が起こらず、言葉を継いでしまった。

 

 「申し訳ないんだけど、出ていってもらえませんか。あなたは知らない人だし、知らない人を理由もなく部屋に置いておくわけにはいかないんです。ぼくもできれば面倒ごとにはしたくないから、二度とここには来ないと約束してくれるなら警察は呼びません。それか、道にでも迷ってここへきたのなら、交番ぐらいまでなら一緒に行ってあげるけど」

 「あなたはぼくに敬語を使っていただかなくて構いませんよ」と「天使」は言った。

 「ぼくはあなたを知っていますし、道に迷ってもいません。ぼくはただあなたを助けにきたんです」

 

 「ですが」

 「敬語を使っていただかなくて構いません」

 

 「でもね、ぼくは今のところ金に困ってるわけでもないし、これといって病気や怪我をしてるわけでもない。君に何か助けてもらう必要なんて全然ないんだよ」

 「あなたが困っているかどうかは、実のところさしたる問題ではありません。今この瞬間、どこかで誰かが困っていればそれでいい。ぼくはあなたを助けることで間接的にその誰かを助けます。ぼくの言っていることがわかりますか?」

 

 「だったら、その誰かのところに直接助けに行けばいいじゃありませんか」

 「どうか敬語を使わないで」

 「とにかく、誰かを助けるためにぼくを経由しなくちゃいけない理由がわからない。君が助けるのはぼくなのに、実際に助かるのはぼくの知らない誰かなんだね?」

 「そのとおり。ぼくが助けるのはあなたで、実際に助かるのはあなたの知らない誰かです」と「天使」はぼくの言いまわしをそのまま引用して言った。

 

 「どうも話が見えてこないな。それに君が本当に天使がどうかもわからないしね。天使と言ったら背中に羽が生えていて、頭に光る輪っかかなんかが浮いてるものじゃないのかな」

 「それはキリスト教の天使でしょう」と「天使」は意外な角度から申し立てた。

 「天使にも色んなタイプがいるんです。ぼくはご覧のとおり、けっこう人間に近いかたちをしてるんですよ」

 

 やれやれ、このまま話していても埒があかないな。ぼくは彼になにかひとつ自分が天使である証明を求めることにした。それができないというのなら、すぐにでもお引き取り願おう。それが今どこかで困っている誰かにとって不利益になるのだとしても。

 

 「わかった、わかった。それじゃあ君が天使だという証拠をひとつ見せてくれないか。なんでもいい。予言とか、空を飛ぶとか、あるいはぼくの願いをひとつ叶えてくれるとか」

 「どれもできませんよ。ぼくがここにいるということそれ自体が、ぼくが天使であるという揺るぎない証拠なんだけどなあ」

 

 「じゃあ、申し訳ないけどすぐに出ていってもらえるかな。ぼくにはやっぱりおかしな人間が部屋に上がり込んでいるとしか思えないんだ」

 「わかりました、わかりました」と今度は「天使」が繰り返した。

 「それじゃあ、今この瞬間、あなたしか知り得ないことをひとつ当てましょう。それで構いませんか」

 「構わない」

 「あなたが持ってるそのスマホ、画像フォルダの『最近削除した項目』のなかです。昨晩失敗したカレーの写真があるでしょう」

 

 確かにそれはぼく自身しか知り得ない情報だった。こうなると、少しぐらいは「天使」の話を聞いてやる必要がありそうだった。

 ぼくはため息をひとつつき、コーヒーを淹れる準備に取り掛かった。部屋の真ん中でぼくの本棚を勝手に漁っている「天使」とやらの分も含めて。