だいぶ感想を溜めてしまった(もう14日)。以下略。
読んだら早めに感想まとめとけばいいんだけど(n回目)、なかなか。
アルゼンチン出身の詩人・作家ボルヘスによる詩論。広く文学論と言い換えてもいいかもしれない。ハーバード大学での講義をもとに書き起こしたもので、文章もすべて口語調になっている。
「『詩を汲む』これこそ私の得た、いわゆる最終的な結論です。事実、空白のページを前にするたびに私は、文学は自分で再発見していくもの、という気がしています」
「私は間もなく七十歳になります。この生涯の大半を文学に捧げてきましたが、皆さんにお伝えできるのは、ただ、さまざまな疑問でしかありません」(いずれもp.8、「1 詩という謎」より)
一方通行的な講義でなく聞き手と一緒に考えていくことを想定していると思われ、さまざまな引用を用いてこちらに問いかけるようなトーンが全体を形作っている。
『詩という仕事について』というタイトルではあるものの、内容は翻訳の議論や言語のはたらきに至るまで幅広い。本人もそのように述べているとおり正解を求めて読む本ではなさそうなので、折に触れて読み返し、思考のスイッチとするのがよいかもしれない。
先月に読んだ同著者の『タダイマトビラ』よりもすんなりと手になじんだ印象がある。登場人物のライフステージや生活圏が自分と近かったことも大きいかもしれない。
何が「正常」で何が「異常」か。それは他者どうしで考え方が異なるのは当然のことながら、1人の人間のなかにおいてもふとしたきっかけで変わりうる(それも無自覚に)。そうした変化を読み手にだけそっと伝わるように、巧妙に描くのが上手いと思う。
設定はあくまでSF的なものとして捉えてよいと思うが、それでも技術や思想のカーヴ具合によっては「ありえなくはない」ものになっているあたり、言い方は難しいがスリリングである。
ただ、やっぱりなんとなく終わり方が急展開な感じはする。言っちゃえば唐突というか、「えぇ……??」という感覚。『タダイマトビラ』でもそんなこと書いた気が。
神道については、2〜3年前ぐらいに「ちょっと勉強してみよう」と思い数冊の本を読んだ。初歩の初歩はなんとなくわかったつもりでいたが、まただいぶ忘れてきていたので1冊手に取った次第である。
タイトルに「日本人の」とついているのは結構ポイントだと思う。『日本の神道』ではなくて、『日本人の神道』。神道自体の概論は多くなく、神道が日本に生きる人々の間でどのように受容されてきたのか、という話に重点が置かれている。
国粋主義や保守思想などとセットで語られることの多い神道だが、教義や聖典、あるいは教祖といったものをもたないゆえに時代に応じて変化しうる弾力性をもっている、という見方はおもしろかった。
仏教との交流や習合についてもわかりやすく書かれており、興味深かった。確かに日本における信仰ということを考えるときに、欠かせないトピックだ。
フリーランスの編集者として「POPEYE」「BRUTUS」の編集部で勤務し、後に独自の写真集等を数多く刊行した都築氏による聞き書きの本。
一般に通用する編集術などというものはなく、自分の話もこれから編集者をめざそうとする人の参考にはならない、といった旨のことをご本人も語っているとおり、この本を読んだとて編集者のなんたるかがわかる、というものでは確かにない。それでも広義の同業者として得るものはあるし、そもそも本として面白い。なにより、「こんなポリシーをもって、こんな視点で、こんなメソッドで仕事をしている人がいる」ということはそれを知るだけでも糧になるというか、同業である・ないにかかわらず、およそ「仕事」というものをもっている人ならば誰でもワクワクすることだろうと思う。
自分1人でカメラをもち、車に乗ってアメリカを走り回って取材した話などが印象深い。私にはとてもできない所業だ。
灯光舎「本のともしび」シリーズより。この作家の作品を読むのは初めてである。主に昭和初期に作品を発表した人で、当時の文壇で存在感を増していたモダニズムやプロレタリア文学とは一定の距離を保っていたらしい。
「伸夫が生れたそのちっぽけな街は、土地の人間だった間中とてもつまらない嫌な所だったが、町を出てしまって十年近くになり、殆ど緣故もなくなった今では、記憶の中でしだいに特色がある町のように思われて來たし、美しいと云うのはあたらないが、少くともそれに近い或る風趣を持っていることに氣づくようになった」(p.81、「あの路この路」)
この部分が、最近自分が出生地に対して思っていることと重なって、志村正彦風にいえば「なぜか無駄に胸が騒い」だ。小説を読んでいて自分の心情と重なる部分に出会ったときに感じる種の高揚は何にも替えがたい。
「本のともしび」シリーズにある程度共通して、喪失や死をテーマにした作品が収められているが、暗く重い雰囲気というよりは穏やかな寂しさを強調した文調である。そこもこだわって撰出しているのだろう。
某名門国立大学の法学部長という地位にある人物・正木典膳があるスキャンダルの当事者となり、転落していくという筋書き。登場人物の個人的なトラブルから始間る物語でありつつ、戦後の権威ある知識人を取り巻く他者との関係性、ひいては世間体や大文字の社会といった他者的相対とのstruggleが描かれていく。
かなり硬い手触りの文体でありながら、つい先へ先へと読み進めてしまう推進力がある。台詞回しによる人物の機微の動かし方が巧妙である。法学の知識・考え方が多少なり要求されるような箇所もあるが、高橋は法学専攻ではなかったというのもすごい。これが作家のデビュー作であるというのは結構驚きだった(担当編集者はかの坂本龍一の実父、坂本一亀だったらしい)。
正木典膳のジェンダー観・家族観については流石に時代を感じざるを得ず、作家自身はその辺りについてどのような考え方でいたのかが気になるところだったが、それについては巻末エッセイ(松本侑子)に考察が載っている。こういうのがきちんと載っているのは文庫のありがたみである。
●柄谷行人編『近代日本の批評 I 昭和篇 上』講談社文芸文庫
「戦後」を昭和中期・後期に分け、各時代の文芸批評について柄谷行人のエッセイがあり、次いで浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、三浦雅士の4氏による鼎談が続くという構成。
批評を批評する、という試みの本のよう。例えば戦中〜戦後に出た文芸作品に対する小林秀雄の批評について、それが妥当だったのかどうかをとらえ直すとか、そういう感じ。
ぶっちゃけてしまうと、本作で批評の俎上におかれる批評がある程度頭に入っていないと何のこっちゃわからん部分があり、ちょっとまだ読むのは早かったかな……という反省あり。鼎談部分はテンポよく会話が進んでいく感じや、同意できない話をズバズバ切っていく語り口はおもしろかったが、肝心の内容は何割理解できただろうか、といったところ。
とはいえ、坂口安吾が合理と非合理について論じた点を「散文精神」と絡めて書いたり(p.212)、安吾の言う「堕落」をハイデガーの思想と比較していたり(p.264)、あるいは批評において哲学と文学がどんな位置関係にあったのかなどの話は普通に興味深かったので、理解を深めてからまたページを開いてみたいと思う。
不動前の新刊書店・フラヌール書店で、表紙とタイトルに惹かれて購入。喫茶店で働く著者の日々の仕事を記録したエッセイ。
こういう本、やっぱり好きだなあと思う。書かれていることはあくまでパーソナルな経験に基づく内容なのだが、文章のリズムづくりがうまく、接客業でない人が読んでもきっと「おるおる、こういう人おるわ〜」と思えるであろう人間描写が巧みで、楽しく読めた。普通にお客とバトったり、出禁にしたりするのおもろい。
この手の仕事エッセイはとかく愚痴っぽくなったり、ともすれば単なるお客の悪口大会になっていたりするものだが、この本にはその感が薄い。もちろんクソ客をボコボコに(物理ではなく言語的に)していたりはするのだが、それが単に自分や誰かの溜飲を下げることに終始しているのではなく、あくまでお店への、あるいは従業員への一貫した「思い」に基づいていることがわかる。そこに思想があるかないかで、文章の印象もグッと変わる。
●長田弘+江國香織 池田香代子 里中満智子 落合恵子『本の話をしよう』晶文社
春日井市の古書店、「かえりみち」にて入手。キリンジと寺尾紗穂さんの音楽が流れる素敵な書店だった。
「幼年、本、秘密」、「子どもの本とリテラシー」、「マンガとコトバ」、「本を贈るということ」という4つの主題について、詩人の長田弘が4名の作家と対談するという形式。長田氏自身によるエッセイも併せて収められている。
テーマとしては子どもと本のかかわりという部分が大きいように思うが、例えば大人になってから読書するようになったという人にも十分勧められるような内容になっていると感じる。
「(前略)ハードに関して言うときには、なつかしさとか、いまではないものとして大好きだったとか、ノスタルジックに語られがちですけれど、それにくっついているソフトの部分は決してそうではなくて、ずっとつながっている」(p.41-42「幼年、本、秘密」)
江國香織さんは本の持つハードウェア・ソフトウェア双方の側面を比較して上のように語っているが私も同意。昔読んだ本というのはモノだけ見ると過去の思い出かもしれないが、読んだものは現在進行形で自分の一部になっているのだと思う。
●Pippo編著『人間に生れてしまったけれど 新美南吉の詩を歩く』かもがわ出版
国語の教科書に載っている「ごんぎつね」の作者、新美南吉の足跡を作品とともに辿る1冊。特に詩人としての新美南吉にスポットを当てている。
センチメンタルな印象を与える表題は南吉の「墓碑銘」という詩の引用。この本の主題と新美南吉という人物を表現するのに非常に重要なキーワードになっている。「墓碑銘」は、なぜか人間に生れてきてしまった鳥が、人間世界の過酷さに耐えられず自ら生の世界を離れてゆくさまが描かれた詩である。が。
「厳しい生に耐えかね、自らの命を絶ったこの鳥には、南吉自身が投影されている面はありますが、南吉との決定的な違いがあります。それは、南吉は自らの生を諦めなかった。けっして手放さなかった、ということです」(p.5「はじめに」)
その生がいかなるものだったかは、本編にて紐解かれていく。
収録されている南吉の詩を読んでいくと、自然の中での日々の営みや、小さな生物への真摯なまなざしが確認できる(「ごんぎつね」もそうだったろう)。