2023 Feb. Books

 2月は短かったわりに結構読めた。冊数が一番大事ではないけれど、少ないよりはやはり嬉しい。自分が。

 

酒井健『特講 私にとって文学部とは何か』景文館書店

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「文学とは何か」ではなく、「文学部とは何か」。これだけでもかなり面白い切り口だと思う。

 第1章の「私の心に残る十五のテクスト」が面白い。国内外の文学作品に対する筆者の思いが1〜2ページで綴られている短文集で、所謂名作と言われるような作品(夏目漱石『それから』、ヘミングウェイ武器よさらば』etc.)を多く扱っているので、自分の読書体験と重ねて新しい解釈が読める。

 『文学部とは何か』というテーマによりダイレクトに迫っていくのは第2章からだろう。p.62〜の「メディアの暴力」という1項には身が引き締まる思いがした。

 「メディアとは伝達の道具であり、ふだん我々はそこに暴力が内在するとは感じていない。適切に使用される倫理観を暗黙のうちに共有している。しかしハンマーにしろ、ボールペンにしろ、道具の役割を外されると、それ自体の存在感が表出しだす。病力とは言ってもいつも激しいとは限らない。不合理なささやかな魅力となって現れることもある(p.63)」

 

 

太宰治『惜別』新潮文庫

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 新潮文庫版は表題作と「右大臣実朝」の2作が収載されている。

 源実朝、というと昔受けた日本史の授業でちょろっと名前が出てきただけの存在である。しかもその扱いと言えば「文学や芸術にウツツを抜かしていて武芸に疎く、勘違いで殺された残念な人」とか、そんなだったような記憶がある。しかし今考えれば、それの何が悪いのか、と思う。多少前提知識がないと難しいとは思うが、歴史小説としてはけっこう親切な気がする。ひとつの芸術観を学ぶ体験として非常に面白かった。

「惜別」は魯迅と、その同級生の日本人医学生の話。戦時中に国から依頼を受けて書いた作品ということで、他の太宰作品とはかなり毛色が違う(世に出たのは戦後すぐ)。執筆経緯や内容についてはやはり賛否が分かれているようで、それもわかる。が、当時の文学者が置かれた状況下を考えると、最大限太宰個人の思想を表現した作品にはなっているのじゃないか、と思う。魯迅「藤野先生」も同時に読むと解像度がグッと上がる。

 

 

●現代詩文庫24『大岡信詩集』思潮社

「さわることは知ることか おとこよ。」

「さわることは存在を認めることか。」

(p.44)

 視覚への疑念と、触覚への憧憬を各所に感じる詩群。いまだ現代詩は自分にとって難解な部分も多く、(現代詩文庫であれば)後ろに付いている「詩論」「作品論・詩人論」を並行して読んでいる。大岡信とその同時代人についていえば、戦時中に少年期を過ごし、戦後に詩を書き始めた世代となる。その世代について端的に表現した一文が渡辺武信大岡信論」のなかにあるのでこちらもちょっと引用してみる。

「戦争も平和も自分のものでなかった彼らは、現在つまり空間の中にすべてを見たが、何一つ所有していなかった。(p.135)」

 個人的には、この部分で解像度がぐっと上がった。

 最近、詩を読むために大切な作業の1つに「歴史の勉強」があるのではないかとつくづく思っている。詩は、ときに報道やジャーナル以上に雄弁に時代性を語る言葉だと考えているので、その背景たる歴史の理解があるとないとでは、頭への入りやすさがまったく違ってくる。

 

 

●ミシェル・マリ 矢橋透『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』水声社

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 図書館でたまたま目に入ったので借りてみた、ヌーヴェル・ヴァーグの解説本。

 結論から言うと、すごく身も蓋もない言い方になるが、「映画は読むより観たほうがいい」。この本に出てくる映画の9割は自分が観たことがないものだったので、その作品自体の面白さや特異性に関しては当然ピンとこず、結果流し読みのようになってしまった。順番間違っちゃったな。

 ただ、映画を観ていなくても読める章もある。ヌーヴェル・ヴァーグというムーヴメントが誕生した背景や思想的根拠はもちろん、俳優の起用手続きや予算感などの制作面のアクチュアルな部分もかなり具体的に解説されており、そこは普通に面白かった。

 あと、NVって完全にフランスのものだと思っていたのだが、関連人物としてたびたびポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(ヴァイダ)が出てきたりしてへえ、と思った。『灰とダイヤモンド』観ます。

 

 

坂口安吾『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』岩波文庫

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 坂口安吾は大学時代に大いにハマり、色々と著作を読んだ作家の1人。最近、また読んでみたくなって頁をめくっている。

この本は安吾の自伝的小説とその周辺作品を集めたもの。ふつうに読んでいる限りは実話、要するに実体験を元にしたエッセイのように感じられるが、作者が言うにはあくまでこれは小説ということらしい。どれも字面通りには受け止めるな、ということだろうか。

まあ「無頼」の名に違わぬというか、安宿に暮らしながらお酒ばかり飲んでいた人らしいのがよくわかるが、しかしその生活を描写する筆致にはやはり鬼気迫るものがある。逆説的だが、不真面目な生活に至極真面目に向き合い、研究してきた人なのだろう。この作品集では次の一文が大好きだ。

「私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、何とでも言うがいいや。私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから。」(『私は海を抱きしめていたい』より、p.370)

 

 

ロラン・バルト 花輪光訳『文学の記号学みすず書房

 コレージュ・ド・フランスでの講義録。バルトは冒頭で「たとえ権力の外にある場所から語ったとしても、およそ言説には、権力(支配欲 libido dominandi)がひそんでいるのである」(p.9)と語る。バルトは、このようにあらゆる言語活動に権力性を見出し、「自由は言語の外にしかあり得ない」「不幸なことに、人間の言語活動に外部はないのだ」(p.17)とまで述べている。そんなわれわれ=人間に残されている手段として「言語を用いてごまかすこと」が提示され、そのごまかしは文学と位置づけられる。

 講義録なので、主題はタイトルにもある記号学デノテーション/コノテーションといった概念の話ということになるだろう。しかし、前提としての「あらゆる言語活動に内在する権力性」ということは、言葉を使って何か語ろうと思うなら誰もが意識しておいてよいことだと思う(バルト的に考えると、例えば国家などの権力に対するプロテストの言葉の中にさえも別ベクトルの権力が内在することがわかる)。

 

 

●マイケル・ポランニー 高橋勇夫『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫

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 言語の背後にあって言語化されない知、「暗黙知」についての論考。人文科学と自然科学をクロスオーバーする知性の持ち主によって書かれた高度な文章という感があり、勿論一読しただけで理解しきることは難しいものの、自分の理解できる範囲内でもかなり面白いと思える箇所があった。

 松岡正剛氏の「千夜千冊」に同書の解説が載っており、これがかなり助けになった(https://1000ya.isis.ne.jp/1042.html)。私自身ちょっと勘違いしていたことなのだが、「暗黙知」とは例えば歴戦のラーメン職人がタイマーを見ずに完璧な硬さの面を茹で上げる、みたいないわゆる第六感的な知のことではなく、「科学的な発見や創造的な仕事の作用に出入りした知」を指すと松岡氏はまとめる。あくまで、言語的に説明できる部分との密接な相関はあると。特に面白いと感じたのは、「ある世代から次の世代への知識の伝達は、主として暗黙的なものである」という部分(p.103、詳細は省きます)。いずれ再読したい本に追加。

 

 

●J.D.サリンジャー 野崎孝訳『フラニーとゾーイー新潮文庫

 自分とごく親しい人が、サリンジャーについて次のように語っていた。「サリンジャーは10代の頃に読んでも、あまりピンと来なかった。20代でもう一度読んでみたら非常に面白く、スッと入り込んできた。30歳を過ぎてまた読んだら、やはりそんなにピンと来なかった」。もちろん1人の読み手の感想なのでそう真に受けるものでもないのだが、確かに高校生の頃にサリンジャーにトライしたときはそこまでハマらなかった。だから、20代も半ばを過ぎた今のうちに読んでみようという魂胆である。

 なるほど、明らかに昔読んだときよりも面白かった。自分自身が大学を出て、友達や家族という存在について一応真面目に考える、という経験を経たことで、作中の「わかりみ」ポイントが増えたのだろう。そういう人生経験をそれなりに積んで、かつ登場人物と年齢が近い状態で読むとバチっとハマる作品なのかもしれない。

 文体に関しては、挙動や手癖を表す描写が細やかで、そこから人物の性格までも読み取れるようになっているあたり映像的な文章だな、と感じた。ってTwitterにも書いた。

 

 

スーザン・ソンタグ 富山太佳夫訳『書くこと、ロラン・バルトについて』みすず書房

www.msz.co.jp

 批評家スーザン・ソンタグのエッセイ集。対象は文学作品のみならず、絵画や日本の文楽に至るまで多岐にわたる。日本では写真論でかなり有名な人なんじゃないだろうか。

 批評もまた文学の一形態である、という感想を抱いた一冊だった。背表紙の言葉を引用すれば、「読むことと見ることを通して人間と世界を洞察する営為」とあり、これは自分が日頃すぐれた小説や詩を読むときに感じることと通じるものがある。これはフィクションにもノンフィクションにも可能な営為なのだな、という気づき。

 最近、ブラジルの作家マシャード・デ・アシスの作品を入手したばかりなのだが、ちょうどこの本に「死後の生 マシャード・デ・アシス」という論考が収録されており、嬉しかった(どんな感想?)。後日マシャードの本を読みつつ再読したい。

 こうしたエッセイ/書評集の楽しみは、文中に出てくる作品を別途探して読んでみるというところにあるが、残念ながら邦訳が出ていないものや絶版になっているものもかなりある。まあどうしても読みたいのは頑張って探そう……。

 

 

フリードリヒ・ニーチェ 氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った 上』岩波文庫

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 超有名な本なので解説書などはたくさん出ているし、詳しい話は先人にお譲りしたい。ほんとの感想だけ書いておこうと思う。

 文体の持つパワーは流石だな、と思う。変な言い方だけど、「ニーチェ名言集」みたいな本が生まれ、しかもそれなりに売れる理由がわかる。一つ一つの言葉は自信に満ちた言い切り(のように見えるもの)で、喝のような勢いも感じられる。実際には前後で留保や理由づけが行われていて、だからこそ原典を読みなさいということが言われるのだけれど。わりといつの時代も一定の層から支持を受けている一因はこういう部分にもあるのだろうな。

 かたや、(哲学史における本書の意義とは別レイヤーで)やっぱりヨーロッパの男性が書いた古い本やな、と思わせる箇所はところどころある。この辺とうまく距離を置いて読めるかどうかも、現代の読み手の器量が試されそう。

 ちなみに翻訳でちょっと面白く感じた部分があって、p.82に「ふたりぼっち(ふたりぽっち)」という表現が使われている。「ふたりぽっち」というと歌詞に使うようなリリカルな造語表現の1つぐらいに思っていたので興味深かった。っていうのもTwitterで言った。

 

 

●危険地報道を考えるジャーナリストの会・編『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか−取材現場からの自己検証』集英社新書

shinsho.shueisha.co.jp

 情報を伝える仕事についている人間の端くれとしても学ぶところの非常に多い本だった。

 タイトルに示されている問いに対し、本書は「ジャーナリストは(たとえ文字通り“危険”であっても)危険地域に赴いて仕事をする意義がある」というスタンスで論を進めていく。

 危険地ジャーナリズムの根本的な意義はもちろんのこと、なぜ日本人が行く必要があるのか、フリーランスと報道機関所属のジャーナリストの違いは何か、ジャーナリストがテロ組織の標的になったのはなぜなのかなど、「そこが知りたかった」という部分がしっかり分析され、報道マンらしい明晰な文章綴られている。短い文章の組み合わせではあるが全体に丁寧で、誰が読んでも伝わるつくりになっていると感じる。

 危険地報道に携わる邦人が現地で亡くなる事故・事件は、自分が知っているよりもはるかに多いことに驚いた。また、それに対する(国内からの)非難の声が殊の外多いことにも。本書の執筆者たちは、ジャーナリズムの意義を確かなものにするためにもこうした事故・事件に批判的に向き合う。これもまた並大抵の知力、精神力でできることではないな、と思う。

 

 

堀辰雄『木の十字架』灯光舎

「薄ぐらい廊下にただ一匹、からす猫がうろうろしていた。(中略)そのきたならしい猫をそっと抱き上げて、咽喉のところを撫でてやったら、すぐにそいつが咽喉をごろごろ鳴らし出したので、私はなんだか反ってさびしい氣がした。(p.23)」

 堀辰雄の文章には上記の引用以外にも好きなものがいくつかある。なんでもないように見える動きに付随するふとした感情の揺らぎの描写が巧みだと思う。一見すると猫を撫でることとさびしさとの関連はわかりづらいが、そのわかりづらさをカバーして余りある流れの自然さがある。

 表題作「木の十字架」はそうした情景的かつ写実的な文章に執筆当時の世相や国際状況を落とし込んでおり、今この時代に読むことで特別な感慨が生まれる作品でもあった。

 本書は堀が生きた当時の作家同士の交流事情を知る資料としても面白い。室生犀星宅が堀や中野重治といった若手作家が集う場所になっていたようで、求心力を持った大物が自宅を解放して、創作のプラットフォームにするというのは現代ではなかなか見られない光景ではないか(知らないだけで何処かにはあるのかもしれないけど)。