今年の2月は閏年で29日まであった。先月から1冊増え、13冊。
1.ディーノ・ブッツァーティ 脇功訳『タタール人の砂漠』岩波書店(岩波文庫)
生真面目な将校ジョヴァンニ・ドローゴの生涯を描いた小説。配属地にて砂漠の民(タタール人)のいつ来るともしれない襲撃に「備え」ながら日々を過ごすドローゴと周囲の人々−変わらない人、変わっていく人−の姿を淡々と描く。主人公の一生分の時間を追う作品は久々に読んだので、ページ数に対して読後感は比較的重め。
軍人たちを主な登場人物に据えていながらも、派手な戦闘シーン等はない。むしろ、世の中にさまざま出ている小説というものの中でも特に静かな雰囲気をもった作品だと思う。……故に、感想を書くのが難しい。
最後、ストーリーにようやく動きが現れたときには、既にドローゴには死の影が忍び寄っている(肝臓の病気と示唆されている)。この作品の結末を穏やかなものとみるか、救いのないものとみるか。27歳の今読んだ感想としては、個人的には後者の印象を受けた。しかしながら、この作品を前向きなものとして捉える読者も少なからずいるようだ。それこそ10年単位で歳を重ねたあとに再読したとき、また違った感想を抱くのかもしれない。
単純に興味深かったポイントとして、作中で主人公を指す言葉が「ジョヴァンニ」「ドローゴ」と両方使われていた。
2.アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』早川書房(クリスティー文庫)
「子どもたちについても、ロドニーについても、わたしは何一つ知らなかった。愛してはいた。しかし知らなかったのだ。」(pp.249-250)
良妻賢母を自負し、満ち足りた人生を送ってきたと自らを信じる婦人ジョーン・スカダモアが、悪天候のため旅の途中で足止めを食らう。そしてやることもなくなって考えごとをしていくうちに人生の真実に気づいていく……というお話。作家が「名探偵ポワロ」シリーズで展開したようないかにもな推理小説ではないが、巧妙に組み立てられた「謎解き」小説ではある。
印象的なタイトルは、教養人であるジョーンが作中でふと思い出すシェイクスピアの詩の一節から採られている。一方でジョーンは決して人格者とは言い切れず、自分は学生時代の友人より良い人生を送っていると傲ってみたり、インドやイスラーム圏の人々に対する態度もぞんざいである(その辺りは作家もかなり意識的に書いていると思う)。ただそれはジョーン自身の潜在的な自信のなさや、これまで精神的支柱としてきたものごとに対する疑念の裏返しであるようにも読める。
改めて、アガサ・クリスティーという書き手の圧倒的な「書く技術」と含蓄に感銘を受ける。
3.『鬱の本』点滅社
84人の書き手による、「鬱」と「本」にまつわる随筆集。冒頭に、「※本書は、うつや、うつのような症状の方のためのマニュアル本や啓発本ではありません。」と但し書きがある。それゆえにタイトルも、正式な病名である「うつ(ひらがな)」の表記を使用せず、漢字の「鬱」を採用しているのだろう。本書では「鬱」という言葉は広く捉えられていて、書き手も実際のうつ病の経験を書いている人から、青春時代の(ある意味普遍的な)鬱屈とした感情を題材に書いている人もいる。
そんな具合にわりと各人の好きなように書かれたエッセイが集まっているのだが、共通しているのは必ず何かしらの「本」が登場することである。それは憂鬱なときに筆者を救った本のこともあるし、逆に鬱状態のときに読んだせいでちょっとしたトラウマのようになっている本もある。いずれにせよ多くの場合実在する本が紹介されているので、気になった本は探して読むこともできる。
鬱を経験した人もそうでない人も、本が好きなら何かしらの大切な経験を得られうる1冊だろう。
個人的には、本書のなかでもやや過激めな内容である滝本竜彦「鬱時の私の読書」(p.94)に結構共感してしまった。
4.川野芽生『Blue』集英社
トランス女性の主人公・真砂を中心に紡がれる物語。登場人物のパーソナルな出来事や感情を主軸にとして進む小説(=フィクション)でありつつ、感染症禍や偏見・差別といった実在の問題が取り扱われており、真砂たちはまぎれもなく「そこにいる人」として読者の前に立ち現れてくる(トランスジェンダーとして生きていくためには特に医療の面で経済的負担が大きいことは知っていたが、現行のシステムがこれほどフレキシビリティに欠けるものとは知らなかった。コロナ禍における「不要不急」という言葉のもった意味も)。
本書の主な登場人物はそれぞれになんらかのマイノリティ性をもっており、そのうえで世界を対峙することを要求されている。一方でそのマイノリティ性の内訳は当然ながらさまざまに異なっており、ゆえに葛藤も起こる。マイノリティだから他のマイノリティの気持ちもわかる、などという単純な問題ではない。
私自身も一応性的に少数な存在(Asexual/Aromantic)として生活しているけれど、本書からはひたすら学ぶこと、考えさせられることばかりだった。特にジェンダーの非対称性やその不可視性などについては学び足ることはない。折に触れて読み返したい本の一つとなった。
翻訳家であり学校図書館の司書でもある筆者によるエッセイ。岩波書店の批評誌『世界』に連載されていたものの書籍化だそう。
私自身が初めて読書会というものに参加したのは昨年のことで、それまで大学のゼミ等を除いては一人で読んでいた本というものについて、複数人で意見を交わす楽しみを知ったところだった。筆者も「読書に目覚めた時から二十代後半まで、本はひとりで読み、ひとりで思いにふけるものだと考えていたし、それ以外に方法を知らなかった(p.ii)」と語っておられ、読書会のプロでもはじめに思うことは一緒なのだなと少し安心した。
筆者自身の経験や思い出をベースに、読書会の醍醐味をさまざまな切り口から学べる内容で面白い。基本的にはいろいろなやり方があっていいというスタンスである一方、「最低限これだけはやっとかないとそもそも読書会として成り立たないよ」という部分はしっかり言い切りで解説してくれており、参考になる。
あとは、翻訳家としての視点を解説しているVI章が興味深かった。海外文学を読んでいてム、と思うところは原文を想像し、自分ならどう訳すかと考えるのだそう。もっとも、これは「読書会」というテーマに限らないかも。
6.尹東柱 金時鐘編訳『尹東柱詩集 空と風と星と詩』岩波書店(岩波文庫)
尹東柱(ユン・ドンジュ)の名前は、これまでに読んできた韓国文学の解説書のなかで幾度となく目にしてきた。現代の韓国においては国民的詩人として、教科書にも乗っている存在とのこと。
咸鏡道(現在の北朝鮮に位置)をルーツとする一家のもと中国に生まれ、平壌やソウルでの生活を経て日本に留学。しかしその日本で、不当としか言いようのない罪状で逮捕され、獄死している。日本語で尹の作品を読もうとするとき、このことはしっかりと意識しておかなければならないだろう。
そのようななかにあって尹は「その時、その場で息づいていた人たちと、それを書いている人との言いようのない悲しみやいとおしさ、やさしさが体温を伴って沁みてくる作品(p.163「解説に代えて」金時鐘)」を朝鮮語で書き続けたという。文学もプロパガンダのために利用された戦時中にあって、パーソナルで叙情的な風景を書くことはそれ自体が抵抗だった。
「世の中から帰ってくるように いま私は狭い部屋に戻ってきて灯りを消しまする。
灯りをつけておくことは あまりにも疲れることでありまする。それは昼を更に
のばすことでもありますので──」(p.13「帰ってきて見る夜」)
「春が血管の中を小川のように流れ
さらさら 小川のほとりの丘に
長い冬を耐えてきた私は
ひとむらの草のように萌えはじめる。」(p.44「春」)
7.碇雪恵『35歳からの反抗期入門』温度
自らも言葉を使って表現している友人たちに勧められ、読んでみた。もともとブログに書き溜めたものを本の形にしたとのこと、内容は真摯なものも多いながら、ネット発の文章特有のライトなリズムと速度が読みづらさを感じさせない。
「『自由は、ひとりになることじゃなくて誰といても自分でいられること。だったりして。』
そう書かれたポスターを駅のホームでみかけた。広告のコピーにハッとしてしまうのはなんだかくやしいし、語尾も鼻につく」(p.17)
わかるぅ。しかし、この文章にはちゃんとオチがあり、単なる広告コピーへのグチに終始するものではない。「わかるぅ」のその一歩先をゆく深みが、一章一章にあるのが面白い。ほかには、筆者のフェミニズムへの向き合い方の変遷を綴った章がとても興味深かった。
私自身には反抗期らしい反抗期というものが(思春期において)なかったように思う。あったほうがいいなんて話も聞くけれど、どうだろう。少なくとも親からは「あんた(反抗期)なかったよね」と言われ、そこから特に軋轢もない。
ただむしろ、特に親にということではないものの、色んなことに文句を言ったりムームー唸ったりしているのは今かもしれない。ぼくは27歳です。
8.浜日出夫『戦後日本社会論 「六子」たちの戦後』有斐閣
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の登場人物である六子らの「ありえたかもしれない人生」を仮想するというスタイルで、戦後日本をコロナ禍に至るまでたどる。ちなみにこの仮想は単なる夢物語ではなく、各時代の統計資料等に基づいた、当該世代の平均値的な人生を描き出すものとなっている。その上で、著者は「もちろん「平均的な」人生などというものは虚構にすぎない」と留保しつつ、「六子の仮想的な「5」の人生を座標軸の原点とすることによって、同時代を生きた人びとの現実の軌跡をそれからの距離として描くことができるはずである(p.45)」と語る。実際に、戦後日本の目まぐるしい時代に存在したさまざまな生をつかむ補助線として平均的な人生の分析があることで、本書の解像度は大幅に上がっていると感じる。
「おわりに─第二の近代社会を生きる─」が非常によかった。「(高度経済成長も近代家族も)少なくともみんなに戻ってくることはありません。戻ってこないものをいつまでも待っていてもしかたありません。前に進むしかありません(p.254)」とある種ドライに言い切りつつも、今後ありうる新しい家族の形、ひいては新しい近代社会の形を提示して本書は閉じる。
9.大崎遥花『ゴキブリ・マイウェイ』山と渓谷社
私はゴキブリが苦手な側の人間である。家とかに出られると、普通に怖い。しかし、なぜ怖いのか。恐らくそれは彼らのことを「知らない」からだろう。人間は未知のものに恐怖を感じがちである。であればこそ、ゴキのことを少しでも詳しく知ることができれば、少なくとも恐怖感については軽減させることができるのではないか。
そんなことを思ってあれこれ調べているうちに出会ったのが大崎さんのYouTubeチャンネルであった。大崎さんの研究対象はクチキゴキブリといって、ふだん東京の人間が家でお目にかかるタイプとは違う種類だが。
本書にはこれまでのゴキ研究の遍歴と、研究者としての歩みが収められている。端的にいってめちゃくちゃ面白い本だった。「ゴキブリのことを深く知ってやろう」という一番最初の動機はもはや忘れ、先行研究と新規性のはざまでゴキの観察に勤しむご本人の語りにどうしようもなく惹かれていた(もちろん研究内容に関する記述も面白い。専門的な内容をわかりやすく書くのがとても上手い)。
言葉の端々から謙虚なお人柄が垣間見えるが、それでも「自分の研究が世界で一番面白いと本気で思っている(p.255)」とのことで、力強い。研究者って本当にタフな人々だと思う。
10.ガッサーン・カナファーニー 黒田寿郎/奴田原睦明訳『ハイファに戻って/太陽の男たち』河出書房新社(河出文庫)
昨秋より、電波に乗って東京まで流れてくる数々のニュース。ニュースを目にし乍ら、たしかパレスチナの作家が書いた小説が本棚にあったはず……と手を伸ばしたのがこの本だった。結局、読み終わるまでにここまで時間をかけてしまった。
これは小説だけれど、ひとつひとつの物語の根本にあるものは歴史的な事実。1948年、或いはもっとそれ以前以降、パレスチナで起こり続けてきたできごとと、そのできごとに巻き込まれてきた「普通の住民」の姿が、(逆説的だが)フィクションの形をとり、かつどこまでも現実的なものとして読者の前に立ち現れる。
表題作『ハイファに戻って』は、1948年にイスラエル(とイギリス)の軍がハイファに介入するシーンから始まる。アラブ人の若い夫婦は混乱の最中、幼い子を家に残したままヨルダン川西岸のラーマッラーに逃れる。20年後、夫婦はもと住んでいたハイファに戻る機会を得て、そこでなんと子どもと再会する。しかし、子どもは成人してイスラエル軍の所属となっていた。あまりに遣る瀬ない分断の物語。「祖国というのはね、このようなすべてのことが起ってはいけないところのことなのだよ(pp.257-258)」。
幾十年以上起こり続けている─決して昨秋、「急に」起ったのではない─分断は、現在に至るまでに 巨大な暴力となり、無辜の人々を脅かし続けている。
先月に続き、一刻も早い停戦と、ガザ、ヨルダン川西岸、そして世界のあらゆる地域で起こっている不当な権利侵害の停止を切に願います。
書店に行くときはなにか目当てのものがきちんとあることが多いが、ときには偶然の出会いを求めていくこともある。この本は後者のパターンで、『感情の世界』というタイトルにピンときて買った。
高校時代の日本史の先生が「歴史の原動力は感情なんだよ」というようなことを言っていて、妙に納得したことがある。「金が欲しい」「土地が欲しい」、たしかに突き詰めれば感情に行きつくと言えるかも。そのわりには、「感情的になるのはダサい」「感情よりロジック」でといったように、なにかと脇に置かれがちなのもまた感情だったりする。
本書は『感情の世界』ということで人間に生まれうるさまざまな感情の形態を、ほかの感情との比較などを交えて掘り下げていく。
「よろこびが自己発展的生命の「現在」における快の感情であったのとちがって、希望の方は自分を未来の座にすえて、その自分へととどこうとする努力と不安からなりたち、したがってかすかの不快さえまじる(p.56)」
希望には「不快」がちょっと混じっているのだそうだ。面白い。他にも「感情は物にもある」など、見出しから「マジ?」と興味をそそられるところも多い。時代を超える面白さとはこのことか、と感嘆した。
12.ニール・ホール 大森一輝訳『ただの黒人であることの重み ニール・ホール詩集』彩流社
医師として働く傍らで多くの詩を発表している作者が、アフリカ系アメリカ人として生きてきた経験にもとづいた作品群で、アメリカにおける差別や抑圧をストレートに告発する内容となっている。「詩」というものをどこか漠然とした、柔らかなものであると考えている人は結構いると思うが(私もそうだった)、そういった印象とは真逆のスタイルと言えそうである。
「訳者あとがき」では上記のような点について、日本の読者が受けるであろう感覚を予測し、それに対する回答まで記載している(「黒人文学者が、「文学性」を高めようとして、自らの苦しさや悲しみ・怒りや喜びについて書くのを控えることのほうが、人種だけには決して触れないという意味で、極度に人種に囚われた態度だと言わざるを得ません(p.123)」)。
どの詩も重い読後感を残すが、自分としては表題作「ただの黒人であることの重み」がもっとも印象深い。
「私を見た途端に/車のドアがロックされる/私を見た途端に/デパートの通路で遊んでいた子どもたちが呼び戻される(p.9)」
ニュースなどで大々的に報道される人種問題も多くの人の関心を惹くが、実際には上記引用のような「日常の風景」こそが被抑圧者を日々傷つけているのだろう。そんな事実を、遠く離れたこの国まで届けてくれるのは、たしかに詩の言語なのかもしれない。
13.キム・へジン 古川綾子訳『君という生活』筑摩書房
韓国・大邱(テグ)出身の作家による短編集。全編にわたって「私」と「君」という人称が使われているのが特徴的で、それぞれ舞台や設定は違えど、基本的にはふたりの人間の関係性を一人称視点で描きとっていく。
日本語版に寄せた作家のメッセージには、「親密な関係において感じる微妙な感情の変化を描いています(p.211)」と記されている。親密な関係とは、家族や恋人、信頼を寄せる友人などさまざまである。「この人となら仲良くなれそうだ」と思った人でも、深くつき合ううちに出自や経済観、あるいは単に性格の差などから徐々に「なにか違うな」と思い始め、心が離れていくというのは、ある程度は誰にでも経験のあることだろうと思う。本書に収められた物語では、それぞれの関係性における「差」や「離別」をときに穏やかに、ときに激烈に描いており、そこにシンパシー/エンパシーを覚える読者も多いのではないか。
また、訳者あとがきでも言及されていることだが、本書は一読しただけでは人物の属性や性別などを想起しづらい書き方になっているのが興味深かった。それは「私」「君」という人称の多用のためでもあり、(またおそらく意図的に)本文中での人物解説を省いているためでもあるだろう。こうしたジェンダーレスな書き方は近年、韓国文学では増えているそうである(p.215)。