10月。なんだかんだで9月までずっとじわじわと暑かったから、10月にしてようやく秋が来た実感がある。と言うてる間に冬が来る。
今月はSILENT BOOK CLUB@箱根行きの電車から始まって読書タイムにエンジンがかかり、久々に課題図書めいたものもできたりして、楽しかった。言うても本関連のイベントが増える時期であり、積読もまた増えてしまった。
1.キム・ミンジュ 岡裕美訳『北朝鮮に出勤します─開城工業団地で働いた一年間』新泉社
このところ韓国と北朝鮮の間で穏やかでないニュースが続いている。2020年以降、相当緊張が強まっている時期じゃないだろうか。
そんなときに、この本のタイトルで「開城(ケソン)工業団地」という場所がかつて北朝鮮にあったことを知った。2000年代の南北の歩み寄り(!)を象徴する存在で、北朝鮮が土地と労働力を、韓国が技術と資本を提供した造られたそう。21世紀に入ってから、南北が合同で産業を動かしていた時期があったとは……。まるで知らなかった。
本書は、この開城工業団地の食堂で1年間勤務した韓国人栄養士の手記である。そもそも、著者のキム・ミンジュ氏は南北の統一にかかわる仕事を志しており、その過程で「北の飢餓問題を解決するために栄養の専門家になろう」という動機で栄養士になったそう(p.186)。そういう(栄養士という仕事への)たどりつき方もあるのか、と思った。
内容は主に北の職員らとの「交流」を書き留めている。言うまでもないことだが、日本に住んでいるとまったくもって実像が見えてこない北朝鮮という国にも「普通の人々」が住んでいて、仕事をして食料を求め、生活をしている。そういった「普通の人々」のことを書いた本として、本書はかなり貴重なものなのではないかと思う。彼女ら(食堂の職員は女性が多い)がどのように仕事に出て、家族を養い、韓国人である著者に接するのか。それらが虚飾なく、平易な筆致で記されている。
「北の人はほとんどの場合、一人だけでいるときは純朴そうに笑いながら頭を下げてあいさつし、二人以上になると目を伏せて無表情で通り過ぎる」(p.81)
南の人間と親しげにしているところを誰かに見られてはいけないのだ。一方、他人の目がなければ南の人間であれごく普通の振る舞いとしてあいさつをする人々らしい。
「北」にまつわるニュースのあれこれを眺めながら、本書に登場する「普通の人々」のことをふと考えた。
2.千葉雅也『センスの哲学』文藝春秋
音楽をやっていると「センスがいい/悪い」という話題は必ずついてまわる。この歳になれば表立って人に「センス悪いね」なんて言うことはそうそうなくなっては来るものの、褒める分には「センス」という言葉はけっこう無限定に使われることが多い印象がある。しかし実際のところ「センス」とはなんぞや、あるいは「センスがいい」とはどういうことか、と説明しろと言われたら、できない人が多いのではないか。私もできない。
そこで『センスの哲学』。これまでに数冊と読んできた千葉雅也先生の著作であり、前作(?)の『勉強の哲学』もとても印象的だったので、これだ、と思って手に取った。
結論、とても興味深く、また何かポジティブな気持ちになれる本だった。センスという言葉から出発して、音楽や絵画、さらに餃子に至るまで話が展開され、全体としては芸術論という形になっている。「モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである」(p.44)というのが比較的冒頭に出てくるキーワードだが、これなどは『勉強の哲学』で出てきた「ノリから降りること」「ノリ悪くあること」あたりの議論にも繋がってきそうだ。
リズムというものを様々な経験に当てはめてみる箇所も面白かった。音楽におけるリズムはもちろんだが、本書では餃子を食べるときのテクスチャや味の変化の過程をリズムに置き換えて解説していく。それが「美味しさ」だったり「味の楽しさ」あたりの話に繋がっていくと。音楽人間としては「リズム」というと必ず音楽から話を始めてしまうので、眼から鱗である。リズムに関するキーワードとしては、「面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なバラツキで起こることである」(p.171)となっているが、ここに至るまでの議論も面白いので気になる向きは実際に読んでみてほしい。なお、「差異」と「反復」という語はジル・ドゥルーズのそれを踏襲している。
章を追って展開していく本書そのもののリズムも(こういってよければ)たしかなセンスのもとに組み上げられていると思った。
3.三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社(集英社新書)
ありそうでなかったタイトルの本だと思う。そして、読書の習慣がある/あった人ならば間違いなくム、と気になる秀逸なタイトルである。この時点で新書としては「勝ち」と言ってもいいぐらいかもしれない。……ゆえに、実際に買って読むまでにワンテンポ遅れてしまった感がある(春にこの本がSNS上でバズっているのを見て、なぜか知らないかなんだか満足してしまった)。
まあそれは言い訳として、タイトルどおりに働いていると本が読めなくなる理由を探っていく本書は、サブタイトルをつけるのならば「サラリーマンの読書史」とでもいうべき内容である。明治時代に始まって高度経済成長期、バブル、そしてスマホやインターネットが普及した現在に至るまで、経済的・政治的・文化的なキーワード(例えば明治期だったら「立身出世」とか)と絡めて、働く人がどんな本を買ってどのくらい読んでいたか、ということを調査していく過程は、端的に言って勉強になり、面白い。また、「読書ができなくてもインターネットができるのはなぜか」といったあるあるの疑問への回答も丁寧だと思ったし、「知識」と「情報」の差異から、「ノイズ」という軸で平成以降の読書という営為に関する位相のねじれを検討していく部分も興味深かった。
最終結論に関しては「実際それができたらいいんだけどね…」と少し思わなくもないが、特に最近は敢えて言語化されてこなかったことというか、改めて口に出してみると大事なことだよなあと気づかされる内容ではある。
4.岸 惠子『ベラルーシの林檎』朝日新聞出版(朝日文芸文庫)
久々に立ち寄った横浜・日吉のとある古本屋で入手。女優、テレビレポーター、そして文筆家と、さまざまな顔をもつ著者による紀行文集である。
『ベラルーシの林檎』というタイトルにまず惹かれ、さらに背表紙の「イスラエル、パレスチナ、バルト三国──人は国境と同じ歩幅の動きを強いられる」という一文で始まるあらすじに、これは買って読まねばという思いをたしかにした。本書の文庫版の刊行は1996年。この時期、パレスチナ(それもガザ)に入った日本人の記録はきっと数少ないはずだ。
岸さんはフランス人の医師・映画監督のイヴ・シァンピと結婚してパリに渡った人で、その地での経験からユダヤ、ひいてはイスラエルへの関心を深め、実際に取材に訪れている。本書にもイスラエルとパレスチナ、双方での体験が書かれており貴重である。
「ふと、デヘイシャ難民キャンプで、私たちスタッフを取り囲んだイスラエル兵の中の一人が言った言葉を憶い出す。
『もうたくさんだ。投石は恐怖です。かと言って彼らに催涙弾を撃つのもほんとにいやです。お互いにもう憎み合うのはうんざりです』
では、なぜ?
このほかに、バルト三国や東欧諸国など、政治体制の過渡期にあった国々を多く回っており、行先ゆくさきでのできごとがときにリズミカルに、ときにシリアスに綴られている(1932年生まれの岸さんは、ご自身も戦争を体験されている。当時の体験は本書の冒頭で語られているし、それは全体の筆致にも無関係ではないだろう)。
そして自身の、日本とフランスの狭間で生きるうえでの「アンコミュニカビリティ」の話。紀行文ではなく自伝的なフェーズが最後に入るのだけれど、これが本書全体のキーになっているよう。
単なるルポエッセイの枠を超えて、さまざまな思考・関心への広がりの窓口になってくれる、そんな本だった。
5.管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』筑摩書房(ちくま文庫)
はからずも『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に対するアンサーのようなタイトルの本を手に取ってしまった(もちろんこの2冊の発行に因果関係はなく、こちらの出版のほうが『なぜ働いていると〜』よりも先だ。
これまでに読んだ本のなかでもかなり風変わりというか、自分が今までに出会ったことのないタイプの本だった。冒頭で本書の前提、つまり「本は読めないものだから心配するな」という話が提示される。読めないものだし、読んだそばから忘れていくものだ。そのことを気に病む必要はないと。また、筆者は「本に『冊』という単位はない(p.13)」という。「あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることを繰り返している(同)」からだ。これも面白い考え方だと思うと同時に、言われてみればなんとなく実感がある。
これ以降は、各段落において古今東西、さまざまな本をテーマに据えつつも、話題は筆者が世界を旅して見てきたものやその国の歴史、政治、大学制度に至るまで自由に飛び回る。まとまった章や項目といったものもなく、左上の柱にはすべて異なる言葉が記されている。1冊が大きな川、それも大小取り合せ、色とりどりの船が浮かぶ川のような本である。あるいは多種多様な樹々に周囲を囲まれた森のような本である(という意味でも惣田紗希さんのカバーイラストが本当に良いんです)。
前述のとおり、章という章もなく、目次もないので、どこでどんな本の話をしていたのか(メモでもしていない限り)あとから見つけ出すのが困難である。また、膨大な情報量と多岐にわたる話題は、本書を「この本はこんな本だよ」と一言で言いあらわすことを難しくする。しかし、それこそがとりも直さず「本は読めなくて大丈夫」「忘れても大丈夫」という前提のたしかさを証明しているように思う。
それでいて、数ページに一度は心を惹く文章がぽ、と出てくるのがまた楽しい。結構たくさんメモしたが、特にこちらが好きだ。
「心がどのような言語で語られるどのような文によって育てられるかは個々の人の自伝に属することだが、その心の自伝は別にいずれかの国語、いずれかの文学に忠誠を誓う必要はまったくない。文字という徴が描き出す文という紋様の非人間的な自由さは、そんな境界をまったく意に介さず、誰にとっても接近可能なものとして、そこに与えられている。」(p.241)
6.エルベール編 蒲 穆訳『ガーンディー聖書』岩波書店(岩波文庫)
ガ(ー)ンディーの著作は3冊ぐらい手元にあるのだが、恥ずかしながらきちんと読み通したものがなかった。そこで、とりあえずいちばんページ数の少ない本書を手に取った。
そしたら。翻訳が古く、漢字がすべて旧字体だった。一応明治〜大正期の文学を読んでいた時期があるので一通り読めはするのだが、流石に現代の字体のようにすらすら進むことはできない。結局じっくりと時間をかけて読む羽目になった。
しかし、それが却ってよかったかもしれない。本書はガンディーの教えが書簡になったものをまとめたものなのだが、「眞理「博愛」「純潔」など、各テーマに沿って説かれる内容は(敢えてこういう言い方をすると)非常にシンプルである。「私慾抑制」のところなんて、こんなことが書いてある。
「肉體に必要なる分量以上に食べてはならない。(中略)食物に關しても亦同樣である。味が良いからとて、なんでも食べるのはこの法則に反する。好むからとて過度に食べるのも同樣である。食物に鹽を加えてその量を增加し、或いは風味を變え、或いは味を附けることも亦法則に反する」(p.31)
要するに食いすぎるな、あと塩分は取りすぎるなと。ダイエットの基本である。しかし、こうした文章も丁寧に目をとめながら読んでいくと、他のさまざまな項目との関連や論理的な一貫性が見えてくる(気がする)。
ガンディー自身は偉大な宗教家であり哲学者であっただろうが、もとより民衆の側に立って活動した人である。そうした背景も大きいであろう彼の、理解はしやすいのにハイレベルな文章を書く技術は、並の生活をしていてたどり着ける境地ではないと思う。
7.崔仁勲 吉川凪訳『広場』CUON
崔仁勲(Choi In-hun、リエゾンが起こって「チェ・イヌン」と発音する)は1934年に咸鏡北道に生まれた作家。今でいうと北朝鮮に当たるエリアの生まれである。朝鮮戦争以降は韓国を拠点として、文学や演劇の世界で活躍して2018年まで生きた。この『広場』は韓国で最も多く高校教科書に採用された作品でもあるそうで(「訳者解説」p.257)、国民的作家と言って差し支えない人物と言えそうである。
だとすると、結構読解が難しい作品が教科書に採用されているなあと思う。主人公の李明俊は朝鮮戦争の後、停戦時にいた南に留まることも北に帰ることも選ばず、外国で新しい生活を送ることを選ぶ。その船上での回想が本作のスタートとなる。主人公はマルクス主義に共感して革命を志しながらも、北の現状を「灰色の共和国(p.146)」と感じ、自分が精神的支柱としてきた思想と現実の乖離に苦悩する。そこに、恋人の女性や父との関係もストーリーに絡んでいき、物語は複線で進んでいく。
私が「読解が難しい」と思うのはまず第一に、朝鮮半島の歴史や、南北におけるイデオロギーの交錯を身体化された学びとしてはもっていないことがあると思うが、その上でこの作品を読んでみても、時系列や場所の情報がシームレスに移動したり、肝心な部分がぼかして描かれたりしており、読者を安易な批評あるいはシンパサイズのフィールドに引き込ませない意志を感じた(とはいえ、戦後しばらくは韓国も独裁政権で検閲が厳しく、ストレートに政府を批判するような内容を書けなかったことが理由としてあるようである。チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』でも似たようなことを読んだ)。
だが、そんな難解な文体の中に時々現れる鋭くストレートな表現に、ぐっと胸を掴まれるのもたしかだ。
「公文書による革命の上にあぐらをかく役人になって、自分の頭で考えようとする人たちに目をむき、真理を解釈する権利を独占しようとする人たちがのさばる社会。こんな社会で革命の興奮を装うのは偽善者だ」(pp.185-186)
「『死ぬ前に、せっせと会いましょうね』(中略)恩恵は、せっせと会おうという約束を、永遠に守れなかった。戦死したのだ」(p.209)
読む人が読めば、芯がどこにあるのかわからず掴みどころのない作品と思われるのかもしれない。しかし、その掴みどころのなさそれ自体が、この物語の根幹というか、南北の分断と主義・思想の迷走の中で生きようとした1人の人間を描く姿勢として、とても真摯だと感じる。
8.尹雄大『聞くこと、話すこと。−人が本当のことを口にするとき−』大和書房
仕事柄、人の話を聞く側に徹することが多い。結論ありきの話もあれば自由に展開していく話もあり、それは取材やインタビューの目的や媒体によっていろいろだが、それだけ「聞く」ということをしていながら、「自分が話すこと」に関してはついぞ考える機会がなかった。そんな思いもあって手に取ってみた本である。
情報の伝達を目的としたコミュニケーションや、ノウハウに基づく「上手な聞き方/話し方」といった、現代で価値あるものとされる聞き語りの価値観をいったん括弧に入れ、「あなたと私の間にある言葉」をそのまま見つめるということについて考えていく、と言ったらよいだろうか。
濱口竜介、上間陽子、坂口恭平、イヴ・ジネストの各氏との対話による章と、最後に尹氏自身が実践しているインタビューセッションという試みに関する章の全5章。個人的には上間教授の章とイヴ・ジネスト氏の章により深く魅入られた。
上間教授の『海をあげる』は私自身にとっても大切な1冊で、そんな同教授の「語りについての語り」を読めたことはとてもよかった。「本当にのたうち回るような経験というのをした人は自分の体験をもたらす言葉を持たない(p.94)」という言葉が脳裡に刻まれている(筆者も述べているように、「経験」と「体験」がわけて書かれていることが重要である)。なぜ、壮絶な虐待を受けた沖縄の少女や、従軍慰安婦として戦場に赴いた人々の語りがときに途切れ、一貫性を欠くことがあるのか。そうした現実にも関係してくる一文である。
イヴ・ジネスト氏の「ユマニチュード」は、少し前に認知症について調べたことがあり、その際に知った理論である。ユマニチュードは「絆の哲学」すなわち「ポジティブな依存の哲学」であると同氏は語る(p.140)。とかくネガティヴな文脈で使われがちな「依存」という言葉の意外な登場のしかたに驚きつつ、彼の考えるケアのこと、また他者に近づくということの意味について知る。
最終章・「私とあなたの間にある言葉」。この章では、他者の話を聞くという取り組みから、「最も身近な他者」であるところの自分に対する言葉のかけ方というところにまで話がを及ぶ。正直、今の自分にはまだ理解しきれていない部分もある章なので、今後また本書を開いたときの宿題としたい。「おわりに」にも、「答えは何ひとつ書いていないけれど、問うための手立てはたくさん綴ったつもりだ(p.260)」とある。
9.宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社
『成瀬は天下を取りにいく』の続編。成瀬シリーズ好きだなあ。「そうはならんやろ」と「ワンチャンあるかも」の間をすり抜けていくストーリーと嫌味のない文体。単なる善人もいなければ100%の悪人もいないが、変な人は結構いる、そんなリアルな人間描写もいい。
これは中身をあれこれ書くとネタバレになりそうなのでこのへんに。