だいぶ感想を溜めてしまった(もう12日)。3月は結構読み進めるほうに夢中になってしまって、立ち止まるのを忘れがちだった。まあそういう月もある。
何というわけではないがちくま文庫の比率が高かった。岩波と並んで好きな文庫レーベルではある。
さまざまな作家による短歌のオムニバス選集。自分にとっての短歌の魅力のひとつは、短い一節で強烈なインパクトを食らう体験をできることである。本作にはそのタイプの魅力が多く詰まっている。
一首ごとに解説がついているタイプの歌集だがそれもよい。ひとつひとつの作品にインパクトがあるぶん、解説があることでワンクッション置くことができるし、その作品が持つパワーの理由や意味も合わせて知ることもできる。
「「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて(山川藍、p.46)」
「家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンまだ温かい(小坂井大輔、p.128)」
この二首が特に好き。
病気と治療について、医学以外のアプローチで研究した本を久しぶりに読んだ。やっぱり文化人類学は面白い、結構一気に読んでしまった。いわゆる加持祈祷や民間信仰と病気の関係について分析している章も興味深いが、そうしたトラッドな医療と現代医療の両方にアクセスしたうえで民俗治療のほうに重きを置く人々の話なども印象深い。民俗医療といっても、決して非科学的で程度の低いものとして捨て置いていいものではない。
「病気と治療」という切り口ではあるが、文化人類学という学問の本質的なあり方や仕事について知るためにもかなりよい本なのではないかと思う。
翻訳家・須賀敦子の本にまつわるエピソードを集めたエッセイ集。須賀さんの、題材に真摯に向き合いつつ、情景を精緻に描くような文章には毎度のことながら惹かれるばかりである。
人生のなかで大切な本、好きだった本のことはもちろん、気に入らなかった本のことをも取り上げて書いているのが面白い(「父ゆずり」に登場する、ドイツ製の二匹の犬についての本。この本について須賀さんは「はっきりいって、この本がきらいだった」と言い切っている)。
本作に収められているエッセイはいずれもパーソナルな出来事に取材するものだが、その文章には何か普遍的な感覚、読書好きなら少しくらいは経験があるだろう心の動きが描写されている。それがよい。そこが好きである。
「何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさにいえば人生の選択を左右することがある。その子は、しかし、そんなことには気づかないで、ただ、吸い込まれるように本を読んでいる。自分をとりかこむ現実に自信がない分だけ、彼女は本にのめりこむ(「まがり角の本」、p.85)」
●ハン・ガン 斎藤真理子『すべての、白いものたちの』河出文庫
「儚くも偉大な命の鎮魂と恢復への祈り」と、背表紙には記されている。祈るということは力強さと所在のなさという、一見して相反する2つの要素を兼ね備えた行為であるように、個人的には考えている。そんな「祈り」を言葉で表現した創作物は、自分にとってある意味で特殊な光を放つ存在である。
『すべての、白いものたちの』は、歴史のタイムラインに記されない個別的な喪失(作者の姉の死)と、より大きな、歴史的意味を付与された喪失(そして再生)がクロスして語られる、小説のような散文詩のような作品である。ここまでで何となく察しがつくことだろうが、一言で説明するのは難しい。
一段落目で「特殊な光」という掴み所のない表現を使ってしまったが、それではこの作品がどんな光を放っているかというと、小さな白い光である。タイトルに引っ張られているのではないかと思われるかもしれないが、この作品に収められた文章たちは間違いなく白い。だがこれは現在のところ、直感でそう思っているだけ。この白さが一体なんなのか、何がそう感じさせるのか。その答えにもう少し近づくために、時を措いて再読するつもりである。
●内田百閒 山本善行撰『シュークリーム』灯光舎
灯光舎「本のともしび」シリーズの5巻目。これで一度、本シリーズの“1期”はおしまいらしい。大森・あんず文庫にて購入(中島敦『かめれおん日記』をここで買ってから、本シリーズは毎回ここで買っている。なんとなく)。
死を扱った作品が多い。一方で、登場人物が食事をするシーンが節々に描かれている。生ある者の行為である「食べる」姿と死んでいる者の姿の対比が、文章に冷たいような温かいような不思議な温度感を形成している。ちなみに3篇目の作品「昇天」の末尾は以下のようになっている。
「十二月二十五日、小春のようなクリスマスのお午におれいは死んだ。附添の看護婦に蜜柑の皮をむいて貰って、半分食べた儘、死んだそうである(p.76「昇天」)」
*筆者注:おれい=語り手の昔の恋人
間違いなく死の側に行った者の描写でありながら、三途の川の途中で木の枝にでも引っかかったまま戻れなくなってしまった何かを眺めるような、奇妙な余韻を残す文章である。
今いちばん行きたい国はどこか、と問われれば「ブラジル」と答えると思う。それは主にブラジルのポップ・ミュージックに対する関心から来るもので、実際に渡航するうえでの諸々の課題はいったんスルーしている。しかし、本場(?)のサウダージを観たい、感じたいという気持ちがあるのは確かである。
『リオデジャネイロに降る雪』の著者・福嶋伸洋さんもボサノヴァに惹かれ、大学院時代にブラジルへと渡った。1年間リオで過ごした経験をエッセイにまとめておられる。その1年を「未来に感じるだろう喪失の予感に満ちた日々(p.2)」と表現しているのが印象的である。まさに、単なる後ろ向きの「郷愁」にとどまらないsaudadeという概念を端的に教えてくれている。
章としては、ボサノヴァを始めとするブラジル音楽とも大きく関連する「III ファヴェーラ、軍政」が頭に残り、何度か繰り返して読んだ。
文中に登場する固有名詞やポルトガル語の語彙については巻末に丁寧な解説がついており、こちらもありがたい。
アジカンのゴッチが犬への苦手意識を克服すべく大小・性格等さまざまな犬たちと触れ合っていくエッセイ集。
ゴッチの文章はよい意味でまったく忌憚がなく、読んでいて気持ちがよい。微妙な関係性で終わった犬についてはそのように書き、獣臭がした犬についてはそのように書き……(もちろんきちんとオチなり、プラスでないポイントも書き残す必然性なりはある)。
ふだん人が触れ合いうる犬というのは、自分で飼っているのでない限り「人んちの犬」であり、そこには自動的に気遣いの必要性というものが生じる。私自身は犬はそれほど苦手ではないが、犬を「かわいいねぇ〜〜〜よーしよし」と愛でる行為はまったく得意ではない。あ、犬っすねえという以上の感覚を持てず、犬よりは飼い主のほうに微妙な反応をされたことが何度かある。しかし、それも含めて犬コミュニケーションなのだろう。ちなみに、犬と良好な関係を築くためには、最初からよしよしするのではなく「無視する(=こちらはそんなにお前に関心をもっていないぞ、とアピる)」ことが肝心なのだそう。知らなかった。
『コンビニ人間』がかなり好きな小説だったことを思い出し、久しぶりに村田さんの作品を読んでみようと図書館で借りた。ちなみに『コンビニ人間』は高校の同級生に貸したまま帰ってきていない。
ハマり切った感はなかったものの、文章そのものにはうまくノって読めた。家族という概念の再考が求められている今だからこそ意味を持つ作品だとも思う(10年以上前の小説だけど)。前半部分の奇妙な手触りを伴った生活シーンの描写はこの人ならではというか、ふだん自分がよく読むジャンルにはなかなかないような気がした。
ラストシーンだけはちょっと理解しきれなかったというか、急展開についていききれなかった。直前まで前述の「手触り」がはっきりしていただけに、現実感が手を離れていってからのギャップがやや大きかった。
山川方夫は短編集や戯曲の台本は読んだことがあるものの、ショートショートは未読だった。というか、「ショートショートの名手」と言われていることすら浅学にして知らなかった(し、山川作品って結構最近まで絶版・品切ればかりだった気がするんだが、最近になってリバイバルが来ているんだろうか。このちくま文庫版も昨年末に出たばかりのものだ)。ショートショートというだけあってサクサク読めて、シンプルに面白い本だった。サキの短編のようなドロッとしたエグ味のある読後感のものも良いし、淡いペーソスが彩る滋味深い作品もある。
巻末には星新一と都筑道夫との対談記事が載っているのだがこれがまた面白い(3人の対談のはずなのだが、進行役の編集者がまあよく喋る。でもこの編集者がかなり知識ある人物のようで勉強になる)。山川はショートショートを2つに分け、それぞれ「風俗コント」と「『奇妙な味』系列」と表現している。そして、後者の方をより面白いと感じるのだそうだ。
また、この文庫版の表紙イラストはそうとう思い切って「今風」に振ったのだと推測されるが、個人的にはかなり好みである。
●笹井宏之『てんとろり 笹井宏之第二歌集』書肆侃侃房
歌集、それも笹井宏之さんの歌集が読みたくなる瞬間というのが確かにある。『短歌のガチャポン』で、「自分にとって短歌の魅力は短い一節で強烈なインパクトをもらう体験をできること」などと言ったてまえ矛盾するようだけれど、笹井さんの作品はあくまで穏やかかつ、露出大きめで撮った写真のような眩しさを感じて好きである。ばっと腕を掴まれるようなインパクトでなく、繰り返し読むうちにじわじわと体に染み込んでくるような引力がある。
「寂しさでつくられている本棚に人の死なない小説を置く(「しずく」p.21)」
「満ちやすいもののすべてが一様に深紅に染まる 終わるのでしょう(「ゆらぎ」p.67)」
「歴代の財務大臣がきらきらと星をかかえて都心を走る(「ななしがはら遊民」p.110)」
●吉村昭『東京の下町』文春文庫
吉村昭が生まれ育った東京の下町(日暮里)に関するエッセイ。文章から下町の視覚的な姿が浮かび上がってくるような筆力はやはり感嘆するほかない。基本的には淡々と個人的記憶やちょっとした意見を書き述べている文章なのに、そこには読み手をするりと納得させてしまうような、あるいはこう言ったほうがよければ、読み手自身がその風景を見てきた気にさせるようなものすらあると思う。
下町の姿や文化について、変わっていくべき部分、伝統が守られてほしい部分の双方について言及している部分も印象深い。とかく極端な二項対立に陥りがちな伝統と進歩という2つの概念だけれど、ほんらい個人のなかで何層ものグラデーションがあってよいものだと思う。
作中に登場する料理、「カレーそば」が食べたくなった。
昨年、カクバリズムから音源の出たキセル「鮪に鰯」は作曲:高田渡、詞:山之口獏というクレジットになっている。この曲は素晴らしく、リリース以降繰り返し聴いているが、山之口獏というこの沖縄の詩人の作品については、これまでまとめて読んでいなかった。小学館の「永遠の詩」シリーズであるこの詩集にも「鮪に鰯」を含めた彼の代表作が収載されている。
「鮪に鰯」は「原爆」「ビキニ」といった具体性の高い語彙を用いた、情景自体は穏やかながらもシリアスな題材の詩という印象。一方で、生活感を前面に出したユーモア溢れる詩も多く、最初に抱いたイメージとは異なる一面が見られた。その理由まではわからなかったが、彼は「結婚」ということに一貫して大きな憧れを抱いていたらしい。
「僕にはいつでも詩が要るのだ
ひもじいときにも詩を書いたし
結婚したかったあのときにも
結婚したいという詩があった
結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た(「生きる先々」、p.72)」
小石川の古書店、大亜堂書店にて購入。戦争を狂乱状態と位置づけたり、「祝祭」などと称する向きを批判し、戦争にもまた倫理があるとする。
センシティヴかつさまざまな立場があり得るこのトピックについてあくまで冷静な筆致で論じられており、文章も比較的平易なため取り組みやすい本だと思う。どんな本にも言えることだが、ここに書かれていることすべてが正義として通用するとは限らないだろうし、それらを的確に批評する知力も私は持ち合わせていない。しかし、取り上げられているトピックや理論はいずれもアクチュアルで、注意をひく。
思考の訓練をするために大きな助けになってくれるタイプの本だった。
『そして、バトンは渡された』の著者であることと、タイトルに惹かれて購入。八重洲ブックセンターで買ったのだが、結果としてこの本が同店での最後の買い物になった。
変な勿体ぶりのない文章で、込み入った物語でもなく、スッと読めた一冊。元体育会系の主人公が文学を経由して前進していくという、テーマもある意味テンプレ的ではあるのかもしれないけれど、当人のバックグラウンドが丁寧に描かれているぶん解像度が高く、そこでオリジナリティは担保されているのではないかと感じた。
欲を言えば「垣内君」の内面をもう少し掘り下げて知りたかったという印象。あと、主人公とその恋人の関係性がちょっと特殊なのだが(ネタバレ回避のためにこういう書き方をします)、そこの必然性もよくわからないっちゃよくわからなかった。もう少しシンプルに読んでしまってもいいのかもしれないけど。
小説のもつ力、ひいては自分にとって小説という形式が必要な理由を強く感じる作品というものにときどき出会うが、本作がそうだった。
「金」に引きずられて狂っていく人を描いた作品、と一言でいえばそうだが、人物の設定や状況、背景を含め、情報量はかなりある。
とりわけ人物の設定が丁寧だ、と思う(昨年『夏物語』を読んだが、その際も同様の感想を抱いた)。今作の登場人物は社会的、経済的な困難を抱えた(もしくは抱えた経験のある)女性が多く、私が普段ボンヤリと生活しているだけでは想像することすらしないであろう世界が描かれる(私は男性で大卒で、正規雇用だ)。そうした世界があるということを意識することができる、それだけでも私はこの小説に出会った意味があると思う。
その場面の明るさや温度感までもが感じられるような情景描写も好きだ。
「冷たい風が私と蘭のあいだをひゅうっと駆けぬけていった。じゃあまた、という感じでわたしは笑い、蘭も、腕を組んで前屈みにした全身を、手をふるみたいに揺らしてみせた(p.109)」