親しい友達とサウダーデ

 インスタグラムのストーリーズに付随する機能に、「親しい友達」というものがある。要するにインスタグラムの友達のなかには昔の義理でつながっているだけの人とか、本当はそう仲よくもないけれど今の立場上フォロー/フォロワーの関係をつくっているという人もいるわけである。言ってみればそういう方々にはいったんお引き取りいただいて、現在に至るまで仲よくしている(もしくはこれから仲よくなっていきたい)人をリスト化しておいて、「このストーリーは『親しい友達』だけで共有したいな」というときにはワンタップでそっちを選択できるわけである。そんなわけである。

 

 大いにアリな機能だと思う。だって、ねえ。そもそも親密さの度合いなんて個人レベルで違うんですから、ただでさえ受け手の印象に気を遣うSNSの運用において、せめて2段階ぐらいはギアチェンジができてくれるのは、全然いいと思います。なんならもっと細かいグラデーションがあってもいいんじゃない? 「ヨッ友」とか。

 

 そんな「親しい友達」ストーリー、人から入れてもらえるのはありがたいことではある。ただときどき、この「親しい友達」ストーリーによってすごく不思議な気分になることがある。

 例えば。ある人の「親しい友達」ストーリーがTLに表示されたとしましょう。閲覧したとしましょう。ぜんっぜん知らない人が映っているのである。そしてそのぜんっぜん知らない人は大抵酔っ払っていて、大抵とってもニコニコしている。

 いや、ぜんっぜん知らない人がいるのも、その人が酔っ払っているのも、まったく問題ない。ニコニコしていることに関しては問題ないところか、普通にいい。そもそも一口に親しいと言ったって、それぞれ複数のコミュニティなり何なりがあるのは当たり前のことなので、「親しい友達」と言えども知らぬ方がたびたび映るのなんてむしろ自然なことであると思う。

 だけどやっぱり、どうしても、「親しい友達」ストーリーにぜんっぜん知らない人が映っているのを見たときの脳のちょっとしたエラーに、いまだに慣れることがない。

 

 この感覚、ひとことで言い表すことができない。「ん、何だこれ、何でおれがこれを見ている……?」という戸惑い、「お、楽しそうじゃん」という肯定のきもち、「この酔っ払いもまたあいつと“親しい”のか……」という要らん推察。全部ないまぜになった、そんな感覚X。

 

 ポルトガル語圏にはsaudadeという単語、概念がある。ポルノグラフィティの曲に「サウダージ」というのがあるが、あれである。「サウダーデ」とも発音する。この単語はひとことで他の言語に訳すのが難しいそうである。日本語の訳書では「郷愁」とされていることが多いけれども、他にも未だ出会えぬものへの憧憬といったニュアンスも含まれるらしく、単に過ぎ去ったものに対するノスタルジーだけを表す言葉ではないという。日本語の概念としては「もののあはれ」などが引き合いに出されることがある。それが適切かどうかはわからないけれど。

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*1

 

既存の言葉でバシッと言い表すことができない感覚・感情というのは、探せば結構ありそうである。とりあえず「インスタストーリーの『親しい友達』にマジで知らない人が映っていたときに感じる脳の揺らぎ」は、ひとつ挙げておいていいと思う。間違ってもサウダーデではないと思うけど。

*1:saudadeという概念と切り離すことのできない文化がポルトガルの大衆歌謡、fadoである。こちらは英語で言うところのfate、fortuneと同じ語源と考えていいらしく、意味合いとしても「運命」といったところのようである