【引っ越し】

↓こんな具合にフィクションと実体験を程よくブレンドした文章を叩き出しては、とある媒体を通じて不定期でネットの海に流している。大丈夫かね。大丈夫か。

 これが文章力を鍛えるという上で意外と役に立たないこともないのと、自分が全く知らない人から「いいね!」がつくという経験が新鮮で、けっこうハマっている。

 

大学を卒業してからもそのまま暫く住んでいた国分寺ワンルームを引き払い、より職場に近い荻窪の辺りに居を構えることを決心したのは今年の4月のことだった。

荷造りを一通り終え、折角だからよく行っていた近所の店を廻っておこうと思い立つ。多忙にかまけ、足が遠のいていた店も多い。

とりわけ気に入っていたのが自宅からほど近い喫茶店だった。年季は入っているものの清潔感のある造り。昔は全席喫煙可だった。その後、店内は禁煙になってしまったが、出入口付近に引き続き灰皿が置いてあり、ありがたく使っている。

店員は皆寡黙だったが、Wさんとはときどき言葉を交わすことがあった。とはいえ、はじめて話したのは通い始めて2年ほども経ってからだっただろうか。

きっかけは明確にあった。あるとき、閉店まであと20分くらいというタイミングで店に入ったことがあった。月並な話だが、仕事ですっかり頭が焼き切れていた時期で、どうしてもその日のうちにコーヒーで落ち着いておきたかった。

手短に注文し、適当な雑誌を捲って待っていると、Wさんは水と一緒に灰皿をもってきてくれた。最近禁煙になったはずでは、と訝っていると、それを察してか、「いつも外で喫っていらっしゃいますから。今日はもう他にお客様もお出でになりませんので」と言い添えてくれた。

自分以外の客が居ないことにすら気づいていなかった。そこへ思いがけぬ心遣いを受け取り、無意識に身体を支配していた緊張がするりと融け、思いの外大きな声で「どうも」と返してしまったのを憶えている。

以来なんとなくだが、Wさんが店にいるときは軽く挨拶するようになった。たまにはちょっとした近況や季節のことを話すことも。

最後にWさんと会ったのは今年の冬の終わりだった。店ではなく、最寄り駅でだった。反対方向のホームに向かい合わせに立っていて、向こうが先に気づき、目礼しつつ手を振ってくれた。こちらも手を小さく挙げる。いかにも湿っぽい光景で、自分乍ら可笑しく思った。

引っ越し前日に店に行ったときには、Wさんはいなかった。残念、非番だったかと思い、その日立っていた小柄な店員に「失礼ですがWさんは、今日は?」と尋ねてみた。だがその彼曰く、まさに冬の終わりにWさんは地元の仙台に帰ったとのことだった。親御さんの体調が思わしくなかった。もともとアルバイトだったこともあり、実家からの連絡を受けると早々に東京を発ったという。

ほんの一瞬、妬みにも似た腹立たしい気分が湧いた。しかしすぐに、もう少し品のよい寂しさがそれにとって代わった。私は「そうでしたか。ええ、いいのです。変なことをお伺いして……」と話を切り上げ、小柄な彼にブレンドを頼んだ。彼はWさんよりもコーヒーを淹れるのが早かったし、いくぶん上手だった。

※本稿は『下町のナポレオン・ダイナマイト』2021年7月28日更新分にて青羽茉莉名義で掲載されたものです。

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