【第2版】人相

 普段は眼鏡を掛けている私だが、先日ちょっとした事情があって久しぶりにコンタクトレンズをつけた。


 コンタクトをつけるのは、3年ほど前にスキー合宿で雪山に行ったとき以来(スキー用のゴツいゴーグルの下に眼鏡を掛けるのはどう頑張っても無理がある、まあ当然だ)。

 果たして、鏡の前でコンタクトを嵌めた顔をあげる。こんな顔だったか。


 特に眼。呑気な丸い2枚のレンズを取り払われた両眼は一重・三白眼・軽い外斜視の3点揃いで、所謂温かな目付きからは少し遠いところにいる。なにも人は見た目がどうこう、と語るつもりはないが、かたや、「目付き」が他者に与える印象をある程度左右する、というのも事実としてあると思う。

 まあ、目付き顔付きは今すぐどうにかなるものでもないのである程度アキラメもつく。それより衝撃が強かったのは、「自分で自分の素顔を、然るべきものとして認識できなかった」ということであった。まいったね。

 

「私の考えでは、十年以上眼鏡をかけ続けていると、目や鼻や口や眉毛などと同様に「それ」も顔の一部だと、顔自身(?)が認識して、眼鏡がある状態が自然であるように顔全体の部品の配置を変化させるのだと思う」(穂村弘)*


 ↑大変よくわかる。部品の配置が変わっちゃう、というのはやや大げさであるにしても、眼鏡が掛かっている状態がベストなように顔付きがセッティングされるのは間違いないだろう。少なくとも脳がそういうふうに認識しているはずだ。

 だから、久しぶりに輪郭のはっきりした自分の素顔をみたとき、(三白眼ウンヌンは抜きにしても)脳が一瞬訝り、「誰やこいつ」という気持ちになったのだろう。なんにしてもやや切ない話である。

 

 もう10年は前になるか。中学時代、勉強面でお世話になった人がいた。彼は厳密にいうと教師ではなかったが、仮に「先生」としておく。

 先生は宮崎駿みたいな髭を生やした壮年の偉丈夫で、なかなか威厳があったが、年に1回ぐらい髭をすっかり剃り落としてしまうことがあった。歳のわりに肌艶がよく、つるんとした先生の髭ナシ顔はどこか子どもじみてすらおり、普段の先生の姿を知っているとやや滑稽な気がしたものだった。

 あるとき先生に「どうしていつも急に髭を剃るんですか」と訊ねたことがあった。彼は平素の穏やかな表情を崩さないまま「そうでないと自分の顔を忘れてしまうから」と仰った。

「自分の顔を忘れるってどういうことだよ」と当時は合点がゆかなかった。


 コンタクトの件で漸く、こういうことね、と腑に落ちた。

 中学校を卒業すると同時に、私は郷里を離れた。引っ越しのドサクサで、きちんとご挨拶ができなかった人が多かった。先生も今は何方で過ごされているかさだかでない。


穂村弘『世界音痴』小学館,pp.15-16

 

※本稿は『下町のナポレオン・ダイナマイト』2021年7月1日更新分にて青羽茉莉名義で掲載されたものに若干の加筆・修正を施したものです。

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