飼いたいって言えない

 5〜6年ほど前、「猫を飼いたい、というよりはひとつ屋根の下で暮らしたい、始終おれにスリスリしていてくれなくともよいので、適宜近くに居ていただきたい」などといい加減なことを書いてTwitterに投稿したら、意外な数の反響があって驚いたことがある。

 

 動物は人並みに好きで、猫もまた人並みに好きである。散歩をしていて猫が昼寝などしているのを見かけると、しばらく気分がよい。

 そんな猫様が我が家にいてくれたらな、というのは、たしかに兼ねてからの想いではある。だがしかし、猫を「飼いたい」ということは、なぜかちょっと言いづらい。

 

 「飼う」という行動/言葉には、対象となる猫、犬でも熱帯魚でもイグアナでもそうだけど、の日々の生活、ひいては生命に関する責任をお預かりするということが含まれてくる。まず単純に、そんな重大な仕事が務まると思えない。自分ひとりを食わすのに精一杯な、私のような人間に。

 そして、よしんばその責任を果たせるデキた人間に自分が成れたとて、やはり「飼う」という言葉を使いづらい気持ちがある。なんとなく、そこには飼い主を文字通り「主」とするアシンメトリな関係性が表れている気がする。猫であろうと、一緒に暮らすうえでは、私は対等でいたい。故に、一緒に「暮らしたい」と言いたくなってしまう(あるいはそう考えることすらも、無責任でしょうかね?)。

 

尾道の猫。土地柄か、非常に人間慣れしているものの先方から媚を売ってくることは原則なく、好感が持てる。

 ちなみに個人的には、さまざまな動物たちがいるなかで、いちばん「一緒に暮らしたい度」が高いのはオオカミである。カッコいいからである。これはしかし、そもそもの実現可能性が非常に低いので、あまり細々したことを考えたことはない。

 

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ZAZEN BOYSの「KIMOCHI」という楽曲にこんな一節がある。

 

意味がわからん言葉で意思の疎通を計りたい

犬猫畜生と分かち合いたいのだ

貴様に伝えたい 俺のこのキモチを

向井秀徳『KIMOCHI』)

ZAZENの歌詞の中ではかなりストレートである。

「犬猫畜生」などというと、一聴すると乱暴な言葉に聞こえる。しかし、この詞からは歌い手自身もまた「畜生」の仲間として、犬猫と同じ目線に立つ、少なくともそうありたいという希求を感じる(私が勝手にそう思ってるだけですけどね)。

 ZAZEN BOYSというバンド名でありつつ、向井氏のリリックからはあくまで俗に属する者としての気概のようなものが伝わって来、非常に好きである。

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