ミュート

 あまり大きな声で言うべきことではないのだろうが、SNSのミュート機能をかなり有効活用させてもらっている。自分のタイムラインに流れてくる情報のなかから特定のワードをセレクトして今後表示されないようにしたり、あるいはアカウントごと非表示にしてしまう、あの機能である。

 昨今、口に出すのも憚られるような酷い言葉が、残念ながらさまざまなSNSで跋扈しているの感がある。そういった言葉を見かけたら当該SNSの「設定」画面に行く。そして、文字通り腫れ物を扱うような手付きで「ミュート対象ワード」のウィンドウに言葉を入力し、ふいと溜息をつく(これをこの2年間で何度やったことか)。これはTwitterで行うことが多い。

 

 あとは単純に「ちげーなー」と思ったときにミュートを使う。こちらはInstagramのストーリーズでよく行う方法だ。例を挙げると、ライブ情報などを取得したいのでアカウント自体はフォローしていたいのだけど、身内投稿が多めでタイムラインがややこしくなりがちな芸能人・アーティストのストーリー(マジすみません尊敬してるんです本当に)。

 また、これももう言ってしまうが、所謂「リア友」「リアルの知り合い」のストーリーズも時折ミュートに入れている。あの、わりと結構な数ミュートに入れている(ワイもしかしてミュートされてる? と思った諸氏へ。貴方は「パートナーと食事に行ったときの料理を、相手の手元とかがちょっと映った状態でトリミングして投稿」したことがおありでしょうか。おありであればまず私にミュートされていると思っていただいて間違いありません。貴方のことを嫌いなわけではないんですよ。ただ私がストーリーズをビャーッと見るときに、それが流れてくるのが「ちげー」からなのです。それだけです)。

 

 もちろんミュートするからには、ミュートされる側の諦観というのも持ち合わせている、つもりだ。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」じゃないが。

 というか、私のSNS投稿は結構高頻度だし、内容も個人的な趣味全開なので、むしろそれなりの人にミュートされていると考えるほうが自然だろう。

 

 さて、ミュートするときのそれとない後ろめたさは、何に起因するものだろう?

「特定のワードや情報をシャットアウトすることで、取得する情報に偏りが生まれるのではないか?」という不安。これはひとつあるだろう。ただでさえ思想的な部分で偏りが生まれやすいSNSである。自分ひとりが不快と感じるキーワードをどんどん排除していけば、さらに偏りが強まるのは想像に難くない。

 …とはいえ、SNSで楽に情報収集を済ませようという魂胆がそもそもよくないといえばよくないのではないか。ニュースや特集記事を詳しく掘り下げようと思ったら一次情報を当たれ、というのは「基本のキ」ですらなく、「基本のk」ぐらいのことだ。当然そこまで辿れば私個人のチマチマしたミュート作業などなんの影響も及ぼさない、生の言葉で綴られた内容がある。

 きちんとした情報に触れたかったら、自分専用にいいカンジにカスタマイズされたSNSアカウントを1回離れて、丁寧に構成・校正がなされた記事や本にあたること。ま、逆に言えばこちらをしっかり心がけておれば、SNSの方は多少ゴリゴリとミュートしちゃっても許されっかな、みたいなところがある。そういうことにしちゃおう。

 

 リア友ミュートに関してもそうで、ストーリーに投稿されていることがその人のすべてなはずが無い。それに、本当に伝えるべきことがあるのなら、インスタ程度ミュートしていようがされていようがメッセージは届く。

 ストーリーのひとつやふたつ見えなかったところでそう支障はない、はずだ(ごくまれに「え、あれこの前ストーリーに投稿したんだけどみてない?」みたいなことを言う人がいるそうだ。私は会ったことがないが人から聞いた。そうなると積みである。というか「知らねーし」でしかないな)。

 

 そういうわけで今年も明るく、健全に、スッキリと、ミュートのほう活用していきます。なんだこの記事。