お風呂。
24年生きてきて、お風呂に対する認識はかなり変わってきている。
小・中学生ぐらいまでは明確に風呂が嫌いだった。理由はめんどくさいから。これに尽きる。
ただお湯を浴びて着替える以外にも、なんだかんだと手間をとる「風呂」が、貴重な1日のルーティンに当然のように組み込まれているのは我慢ならなかったものだ
(実のところ風呂に毎日入らなくてはならない義理はないんだけど、まだ子どもだった僕にとって家のルールは社会のルールだった)。
それから少し経ってから読んだ本で、谷川俊太郎さんが「風呂に毎日入ってはいない」と書いていて衝撃を受けた記憶がある。
質問 十四
どうして、おふろは毎日入らなきゃいけないものなんでしょうか。
(ちな 二十六歳)
谷川さんの答
どうして、二十六歳にもなって、こんな質問をしなきゃならない羽目になったんでしょうか?
ぼくは毎日入っていません。
毎日入るべきかどうかの話は置いといて、年を重ねるごとにお風呂が嫌いでなくなっていったのも、また明確だった。
特に20歳をすぎてからは、お風呂に入ることで明らかに体力が回復するようになった。
邪魔者だった風呂は今や、生活を円滑で快適なものにするための重要なパートナーである。
そんなお風呂ともここしばらく疎遠である。
僕が暮らすアパートのお風呂はいわゆるユニットバスというやつで、浴槽も小さい。
だから日常的にはシャワーで済ませ、週一ぐらいで銭湯に行っていた。この銭湯というやつが非常に良いのだ。
実家で生活していた頃には銭湯とは無縁で、なんなら前時代的な文化なんだろうとまで思っていた。しかし一人暮らしをしてみるとその意義、ありがたみをしみじみと感じる。
広々した浴槽に浸かるという体験が、いかに人間の身体に好影響を与えるかがよくわかる。
しかしこのところの外出自粛で、気軽に銭湯に足を運ぶというわけにもいかなくなっている。
休業したり、営業時間を短縮するなどの対策を打っているのはどこも同じだ。
先日、試しにアパートの浴槽をはじめて使ってみたがどうにも落ち着かず。贅沢を言うようだが足を伸ばせるだけの広さは欲しい。
そんな訳で目下行きたい場所は兎にも角にも「広いお風呂」である。
銭湯のみならず、学生時分に行った幾つかの温泉宿はもちろん、合宿所の雑然たる大浴場ですら愛しい。
最近は近所にあるデザイナーズ銭湯(ナンジャソリャ)に行こう行こうと思っていたのだが、それも現状お預けを食らっている。
誰もがそうだろうが、この事態の一刻も早い収束を祈っている。
そしたら広いお風呂をたくさん巡ろう。