2023 Jan. Books

 今年は本もせっかくなのでまとめていこうと思いました。どうでもいいことだが小学生のころ読書感想文ってふつうに嫌いだったな。こういうことは大人になってからやる方が楽しかったりするのである。

 

藤本和子イリノイ遠景近景』ちくま文庫

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 米文学の翻訳家・藤本和子による「住処」を主題としたエッセイ集。同じく翻訳者である岸本佐知子さんの解説には「藤本さんの『聞く人』としての本領はここでもいかんなく発揮され……」とある。

 魅力ある文章を書く人とは、すぐれた書き手であると同時に(以前に)すぐれた聞き手であるというのは間違いないことだと感じる。さらにいえば藤本さんの場合、聞く力もさることながら、話し手の居る場所に行ってその空気や感覚を知ろうとする力も非常に長けているのではないかと思う。「居る力」とでも言えばいいだろうか。聞いたことを真摯に受けとめ、過剰に褒めあげず、当然腐しもせず丁寧に書き起こすこと。言葉にすればシンプルにできそうなものだが、なかなか簡単にできることではない。

 『葬儀館そしてアイダ/イザベル』、『ベルリンあるいは悪い夢』の2篇は特に深い感銘を受けた。

 

 

●佐藤友則 島田潤一郎『本屋で待つ』夏葉社

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 広島県庄原市の山間にある本屋「ウィー東城店」で店長を務める佐藤友則氏による著作。地方の書店という過渡期にある商業形態について、ひとつの可能性を勉強できる1冊。

 この本もまた、土台となっているのは「これまでここで起こってきたこと/今ここで起こっていること」をまずは虚飾なく述べる、ということだと思う。そのうえで東城における書店+αの可能性が展開されていっており、単なる「紙の本礼賛」に終始することのない仕事本。

 自分ももう東京での生活が長くなり、書店に限らないが東京以外の地域での経済のあり方を想像しにくくなっている部分が多分にある。こうした記録を文字で、人々の息遣いのようなものを感じながら読むことができるというのはなかなか得難いことだと思う。

 

 

●ルイ・ズィンク 黒澤直俊編『ポルトガル短編小説傑作選』現代企画室

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 去年からポルトガル語圏における「サウダーデ/サウダージ」という概念について勉強したくて、ポルトガル・ブラジルの文学をいろいろ探している。

 編者ルイ・ズィンク氏は本作序文において「われわれは『遅れた国』だった。二十世紀のもっとも長い独裁政権が支配していた。われわれは流動的な民でもある−−柔軟でざっくばらんで好奇心が強い。あなたのようにだ、日本の読者よ」と語る(最後の一文については諸説あろうがここでは触れない)。ポルトガルの歴史や文化についてもっと勉強してから再度読み直したい本。

 イネス・ペドローザ「美容師」とドゥルセ・マリア・カルドーゾ「図書室」の2篇が初読時のフェイバリット。前者は近現代のポルトガル(ひいてはヨーロッパ)における女性の生について、後者はポルトガルが参戦した戦争と、同時代の教育について、学びの扉を開いてくれた。

 

 

●岡崎裕美子『歌集 発芽/わたくしが樹木であれば』青磁

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 穂村弘氏がたびたび「したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ(「小さな嘘」より、p.15)」という歌を引用しておられた。それが岡崎裕美子作品との最初の出会い。

 生活、それも性生活を思わせる作品がたびたびみられるが、その多くで抽象的な二人称が使われていることもあり、およそ性行為の主体、ひいては性別というものの立ち上がりが薄いことに気づく。性という限りなく個人的な経験を題材にとっていながらも、その作品世界はあらゆる人に対して—セックスをしない人に対してさえも—開かれているようである。

 個人的には、作中にたびたび登場する地名が自分の生活圏内と近く、勝手に親近感を抱いた。日大藝術学部のご出身だそうである。

氷川台とは寒そうな場所ここであなたを想った 何度も何度も(「海のまねする」より、p.52)」

 

 

吉増剛造『続・吉増剛造詩集』思潮社

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 何度読んでも難解な詩人であると思う。きっと、彼の作品により近づくにはもっと時間がかかるはずである。だが不思議と、諦めてしまおうという気にもならない。吉増剛造の作品にはそんな引力がある。

 彼の詩を読んでいると、ただ風景を眺めるのに近い感覚に陥ることがある。それは太陽が髪を靡かせる風景であり、大河の氾濫する風景でもある。風景をみてそれを「理解しよう」とは思わないように、彼の詩をもまた理解しようとすることがそもそも正解ではないのかもしれない。ただし近づくことはできるだろうし、目に焼き付けることも多分できる。目の前のページに広がっている言葉の風景を、まずは真摯に受け止めることが求められているのかもしれない。

 ひとつ吉増の詩の風景を具体的なものにしているのは東京、それも武蔵野に関連する地名たちだろう。多摩川とか、恋ヶ窪とか。

 

 

安部公房『けものたちは故郷をめざす』岩波文庫

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 終戦直後、満州から日本をめざす男・久木久三の話。安部公房の作品のなかでは比較的初期の作品で、「解説」のキーワードを借りるならば、登場人物の哲学的な思弁や物語を離れた散文などはみられない。『砂の女』のざらついた不気味さや『人間そっくり』のブラックユーモアもまだない。公房作品のなかでは(逆説的ではあるが)異色な部類に入るかもしれない。

 厳寒の大陸における壮絶な旅路のシーンが大半を占めるが、一度読み始めるとなかなか止まらないのは圧倒的な筆力のなせる技だろう。公房本人は本作を「地味」と評していたらしいが、いやーそんなことはないでしょ、と思ってしまう。物語の終盤に至るまで、久三の前に立ちはだかるのは祖国(=日本)との絶望的なまでの距離。その距離は物理的なものでも、精神的なものでもある。戦後という時代において、教科書には書かれないが確かに存在した、幾つもの自我の危機を思う。

 

 

●クロード・レヴィストロース 今福龍太『サンパウロへのサウダージみすず書房

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 元になっているのは構造主義の旗手である文化人類学レヴィ=ストロースによる写真集で、日本語版はやはり文化人類学者である今福龍太氏の写真と論考を組み合わせたもの。

 レヴィ=ストロースによるオリジナル写真(1935〜1937年撮影)と今福氏による現代のサンパウロ(2000年撮影)の写真を比較して見ることができるという構成になっている。レヴィ=ストロース文化人類学者として、写真のもつ暴力性や搾取性について明確に批判している。特にヨーロッパ人が(旧)植民地や「未開地」で撮利、持ち帰ってくる写真については。しかし、サンパウロでは自らカメラをもってかなりの枚数を撮っているところや、後年の著作では結構こだわった加工までして写真を掲載しているところをみるに、写真そのものについては純粋に関心があっただろうことが窺える。

 そうしてまとめられた写真集に付けられたタイトルが「サウダージ」であることは尚のこと興味深い。

 

 

●ハン・ガン著 きむ ふな訳『菜食主義者』CUON

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 「返事を待つように、いや、何かに抗議でもするように、彼女の視線は暗くて粘り強い。」

 この小説にはエンタメ的な面白さや、知的興奮を起こさせる情報が盛り込まれているわけではない。のに、一度読み出したら目を離せないような力がある。ある種の韓国文学に特有の、言葉がその媒介性(上手く言えないが)を自ら飛び越えて、ダイレクトにこちらに向かってくる感覚。言葉に両肩を掴まれて「おい、聞いているか」と凄まれているような感覚……。本作を彩る大きなテーマは、花や木といった植物にあるだろう。主人公のヨンヘはある日突然「菜食主義者」になる(そしてだんだん「食べること」そのものを拒否していくようになる)。

 そして物語は彼女を取り巻く何人かの人物に視点を移し、謂わば「半・群像劇」といった体裁をとる。そのなかで取り扱われている要素は食習慣や家族、セックス、生態系など多岐にわたっている(そしてそれらは、本来であれば韓国という国の歴史から紐解いていく必要がある)が、これらがいずれも文章の中で浮くことなく、ごく自然な形で読み手の懐に入り込んでくる。この辺り圧倒的な文章力を感じる。

 

 

●アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ 酒寄進一『雨に打たれて』書肆侃侃房

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 吉祥寺・百年で見かけてからずっと気になっていた1冊。筆者は年代的・ジャンル的にはロストジェネレーションに分類されるそうだが、非英語圏、かつ男性でない書き手によるロスジェネ作品は今回初めて読んだ(筆者はスイス人の写真家)。

 作品の主な舞台は1930年代の中東諸国で、当時のこの地を取り巻くヨーロッパ大国とその植民地の関係性を勉強しながら読んだほうが、設定の妥当性などがよりよくわかる(逆に勉強しないとちょっと難しくて置いていかれる)。外部からの訪問者として客観的に中東での生活を描写しながらも、旧来的なヨーロッパ型価値観に対するクリティクスとしての性格も持ち併せた読み応えのある文章だった。

 フランス軍所属のアルジェリア人将校と恋人のヴァランティーヌの関係を描いた「別れ」、ジャーナリストのカトリーン・ハルトマン男爵夫人の肖像「女ひとり」がフェイバリット。

 

 

津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』集英社文庫

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 昨年、『君は永遠にそいつらより若い』を読んで衝撃を受けて以来、津村記久子さんはこれからどんどん読んでいきたいと思っている書き手のひとり。

 裏表紙の内容紹介には「男女のささやかな繋がりを描くお仕事小説」と書かれているが、その通りだと思う。『君は〜』のように劇的な何かが起こったり、大きな伏線回収があるわけではない。ただ「こんな人間マジでおるんか」というような理不尽がときどき降りかかってきたりはして、それがなんとなく解決したりしなかったりして進んでいく。と書いてみると淡々としてみえるが、個人的にはこの空気感を「つまらない」とは感じなかった。特に会社員の「お仕事」って往々にして上に書いたようなものだろうと思うし、その辺りの解像度の高さが結構ツボだった。

 フィクションであるところの小説がどこまでも現実に忠実である必要はないと思うけれど、本作のような深いリアリティを持っていつつも創作ならではの推進力のある文章、これはやはりときどき読みたい。

 

 

北村太郎『路上の影』思潮社

iss.ndl.go.jp

 現代詩文庫から詩集が出ているからそちらから読んでしまってもよかったんだけれど、図書館でこの1冊と目があったのでまずはこちらを。分量的には決して重くないが、読後感はしっかり充実している。

 生活のなかでつい見落としてしまいそうなふとした瞬間を拾い、鳥や鼠に目を向け、虚飾のない言葉で書き残していると思う。文学にしかできない仕事、というものを的確に捉えて形にしている作家のひとりではないか。経歴をみると、端的に言って人間関係でかなり苦労をされたんだなということがわかる。作品から別に人間ぎらいを感じるわけではないが、人間と人間以外(動植物や風、月、太陽といったものたち)の手触りに隔てがない印象はある。

「毎日の行動のなかで

 感覚と感情がぴったり一致することって

 あまりないものだが、ごくたまに

 偶然は起こる

 きのうの昼、ぼくはとてもふきげんで

 ビルの階段をのぼっていこうとして、金属の

 手すりに指をかけたのだが

 その一瞬

 静電気が走りぬけた

 その痛みは、ふきげんと

 じつによく釣りあっているようにおもった(「月の感情」より、pp.18-19)」

 

 

青弓社編集部編『『明るい部屋』の秘密』青弓社

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 読みやすいんだか難解なんだかよくわからない写真論の「名著」、ロラン・バルトの『明るい部屋』を何人かの研究者が各自の視点で読み解いた小論集。いろいろな読み方があるんだな……というのがざっくりとした正直な感想。

 1回原作を読んでわかった気になっていた部分がちょっと違ったり、うろ覚えになっていた概念(「ストゥディウム」と「プンクトゥム」)を復習できるといった点においてはシンプルに役に立った。

 全体を通しては、松本健太郎氏による「言語と写真」(pp212-232)が面白かった。バルト記号学では、あらゆる非言語的な記号体系においてもその存在において言語の介在を見出す「言語中心主義」が顕著だとしつつも、バルト自身が(言語の介在する)イメージに対する抵抗を表明しているのだった(pp.216-217、「形容詞を与えあう関係は、イメージの側、支配と死の側に属する」)。写真から得た印象を言葉を使わずに“感じる”というのは、たしかに難しい。

 

 

●ミシェル・ザウナー 雨海弘美『Hマートで泣きながら』集英社

www.shueisha.co.jp

 去年の秋口、大森のあんず文庫さんに本を買いに行ったら「ミシェル・ザウナーの翻訳が出るらしいですよ」と教えていただき、ずっと楽しみにしていた1冊。シンプルにいい本だった。まず文章が上手い。

 話と話のつなぎ方、形容詞の使い方……奇を衒うでもなく平坦に過ぎるでもなく、それらのバランスのちょうどいいところをついている。これもまた「喪の仕事」の一つのあり方なんだろうと思う。

 母去りし後、ミシェルが動画を見ながらキムチをつくる場面がとても印象的だ。母と彼女をつなぐ料理を一から作り上げていく営為は、大きな喪失と向き合うために必要なことでもあったのだろう。

「キムチの嫌いな人に恋しちゃだめよ。キムチのにおいは毛穴から入りこみ、あなたの体に染みついて離れないんだから(pp.279-280)」

 

 

●マーク・ローランズ 今泉みね子『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』白水社

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 ハイイロオオカミの「ブレニン」と生活を共にした哲学者のエッセイ。オオカミ、いいですよね。一緒に暮らしたい。しかしこの本を読むと、当然ながらオオカミとの生活がそんなに甘いものではないということを学ばざるを得ない。とりあえず東京で会社員をやっている限りは絶対に無理だ。

 基本的には平易な文章で綴られた読みやすいエッセイだが、ところどころオオカミとの生活に着想を得た哲学的トピックが展開される。ホッブズの自然状態の話が絡んでくるあたりなどは読み応えがあって面白い。

 ……これは個人的な反省ポイントだが、この本はちょっと読むのに時間をかけすぎてしまった。途中で他の本を挟んだりしてしまったせいで、読み終わった時点で忘れている要素が結構多かった。いずれまとまった時間のあるときにビャっと通読してみようと思う。

 

 

フェルナンド・ペソア 近藤紀子『アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア短編集』彩流社

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 ポルトガル文学、その2。ペソア初読は『不穏の書、断章』(平凡社刊)だったのだが、それとこの小説集では結構印象が違って驚いた。『不穏の書』で感じたのは繊細さや内向性といった要素だったが、短編集ではむしろある種の無遠慮さやシニカルさだった。中には現代の感覚からすると(倫理的に)相当きわどいのでは、という表現も見られる。

 ただ、ペソアの場合これらの表現を意図的にやっている可能性が十分ある。そもそも数々の筆名を使い、ときには本当の国籍すらも(本作にも恐らくイギリス人作家という設定で書いたものがある)ヴェールに包んで書いた作家だから、繊細さと大胆さをそれぞれ憑依させて作品を書き分けていたのかもしれない。だとしたら恐るべきセンスだ。

 表題作の「アナーキストの銀行家」は、資本主義社会における「勝ち組」でありながら無政府主義者を自称する銀行家が、一見矛盾して見えるそのアイデンティティについて解説するという作品。経済や政治の議論にまで踏み込む、かなり興味深い内容。