混乱した精神の時代に、心照らすユーモアを(山中タクト『Still Life』感想)

Still Life

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街全体は幾分毒気を増してはいたものの、日の落ちたセントラル・パークを車で南に抜け、木々の間から灯がこぼれる五九丁目の街並を目にする折りには、いつも心が和んだものだ。そこに存在するのは紛れもない私の失われた街であり、それは謎と希望にひっそりと包み込まれていた。しかしそのような傍観者的な立場は長く保てない。労働者たちが街の腸の中で生きねばならぬように、私はその混乱した精神の中に生きねばならなかったのだ。

スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー中央公論新社, 2006, p.252

 

 山中タクトのセカンド・アルバム『Still Life』を一聴したあとにふと頭に思い浮かんだのが、冒頭に引用した『マイ・ロスト・シティー』の一節だった。

 今まさにニューヨークに飛び立とうとする彼の作品に宛てて、こんな文章を引用するのはいささか不躾に過ぎるかのように思われる。しかし、馴染みの街を漂う心もとなさ、世界とのわかりあえなさといったこの物語のテーマは、『Still Life』の纏う空気感と奇妙な一致を果たしているように思えてならない。

 翻って、『マイ・ロスト・シティー』の語り手と『Still Life』の語り手(たち)の差異とは何か。これもまた明確であるように思う。前者が仄暗い諦観のなかで物語を締めくくるのに対し、後者はぐっと顔を上げ、眼前に漂う「謎と希望」をもう一度見つめてみせる。

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 前作『Masterpiece(=最高傑作)』がタイトルどおり、山中タクトのもちうる魅力のすべてを出し尽くした、謂わば名刺代わりの1枚だったとすれば、今作『Still Life(=静物画)』は彼の等身大の現在地を素描した1枚であると言えそうだ。

 失礼を承知で、前作『Masterpiece』に対する「不平」をひとつだけ述べておきたい。それは「あまりにもよすぎる」ということだ。楽曲、サウンドプロダクション、ジャケット写真に至るまで隙がない。私はそうした完璧さに対して、ただただ1人のファンでいるよりほかになかった。

 一方、この『Still Life』は、多くの名手の協演のもと組み上げられた前作から一転し、全編にわたり山中タクト1人の手によって制作された完全宅録作品である。本作のサウンドスケープには生楽器の手触りと打ち込みによるリズムが(限りなく自然な形ではあるが)同居しているわけだが、そこにはわずかながら「つけ入る隙」が存在している。言い方を変えてみよう。本作には、頃合いをみてそっと隣の席に座ってもけして気圧されない、そんな親しみやすさがある(前作よりもコンピュータで作られた割合が多いはずの本作において、ある種の親しみやすさが生まれるというのもなにか逆説的だ)。

 手持ちの一番いいプレイヤーとヘッドホンを用意してじっくり聴きたくなるのが『Masterpiece』だったとすれば、喫茶店の長椅子にでも腰掛けて、談笑するような気持ちで聴きたくなるのが『Still Life』だ。

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 リリックにも目を向けてみよう。

『Masterpiece』の語り手たちは具体的な記憶や情景に依拠しながらも、どこか達観したような、一段高いところから世界を見渡せる余裕をもった人物たちであるように思える。人知れず自分だけのダンスを続ける小さな踊り子に語りかける#2「タイニーダンサー」、過ぎ去った思い出を懐かしみながらも最後には「たまには海にでも行こうかな」とひと息つく#4「フィルム」。#6「港の見える町で」の主人公は「人生は一度きりです」とまで語りきってみせる。もちろん、そこから来る安心感にも似た情緒が、『Masterpiece』の無二の魅力でもあるのだけれど。

 それに比べると『Still Life』の主人公たちの目線は、なんとなく皆「僕」、すなわち自分自身を向いている。いかんともしがたい悩みごと、知れば知るほどに寂しさのいや増す心の繊細さ。そういった(本当は誰もが抱えているけれど、敢えて言葉にはしないような)あれこれに、ときに躊躇いながら、ときに赤裸々に向き合っているようだ。

人生の春と夏しか まだ僕らは知らないんだ

#4「冷めたコーヒー」

借りておいた映画を今僕だけが見ている

#6「さよならも言わず」

眠れぬ夜が僕にもあんだよ

#9「天使じゃないのに」

 引用はこのくらいにしておこう。あとは実際にアルバムを聴いて確かめてみてほしい。本作が宅録であることとも相まって、訥々としてパーソナルなリリック群はリスナーの手をひいて深い内省の世界へと誘っていく。

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 では、『Still Life』というアルバムは結局のところ、どういうアルバムなのだろう。「善良なソングライターがひとり自室に篭って仕上げた、ただひたすらに内を向いた作品」と理解すればいいだろうか。いや、恐らくそれも不正確だ。この作品は内省的・個人的であると同時に、たしかに世界に向かって開かれてもいる。

 サウンドについて触れるのをすっかり忘れていたが、本作はひとりでつくられたということを忘れるくらい、音楽的には幅広いものになっている。

 #1「My Room (My World)」の倍音を効かせたギターとサンプリングされたタブラの響きはいかにもインド風だし、#3「春風が吹く頃」や#6「さよならも言わず」ではヒップホップ・ライクな電子ビートも味わえる。もちろん、The Beatlesを起点とするUKロックへの溢れんばかりのリスペクトもそこかしこに健在だ(特にコーラス!)。かと思えば、#11「ソングライター」では大胆にバンドサウンドから距離を置き、鍵盤とストリングスに背中を任せて詞を紡ぐ。ラスト・ナンバーの「新しい季節」は、ゴスペル風のブリッジが印象的な、力強い前進の歌だ。

 個人的には#9「天使じゃないのに」の音世界にすっかりやられた。静謐な祈りのように、かつタイトに四分を刻み続けるキックの上で、さながら天使の羽のように(!)ふらつくギター。この世のものならざる雰囲気すら、そこには感じられる。

 そして、これだけの要素がおもちゃ箱のように詰め込まれていながら、不思議と「節操のなさ」は感じず、アルバムとしてひとつのまとまりを保っているのが本作の凄みである。

 

 もう一度だけリリックについて触れさせていただく。#7「ペダル」のセカンド・ヴァースにドキリとさせられた人は私だけではないだろう。あの詞を聴いて、なにか具体的な場所や人物をまったく思い浮かべないという人が、はたしているだろうか?

 

 どうも話がとっちらかってしまっていけない。言いたかったのは、間違いなく本作には外界に向けた「開かれ」が存在する、ということだ。広い世界から集めた音楽的な要素からも、さりげなくもしっかりと時勢を掴むリリックスからも、そのことは感じられる。

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 冒頭のフィッツジェラルドの言葉を借りるならば、私たちが生きる現代は「混乱した精神」の時代と言えそうだ。かたや「自分らしく生きよう」と微笑むスローガンに肩を抱かれ、かたや「何者かにならねばならない」という強迫観念にせっつかれ、どうにか信ずるべき言葉を手探りしている私たち。優しかったはずの街で道に迷いながら、なんとか今日も一日生き延びんとする私たち。そんな私たちに、本作はごく自然な足取りで寄り添う。それはとりも直さず、『Still Life』の語り手たちもまた私たちと同じ目線で生き、ときに笑い、ときに泣く市井の人だからだろう。

 自らの寂しさや至らなさを抱き止めながら、そろそろと前に進むことは両立しうる。自己を深く掘り下げると同時に世界に向けて窓を開くこととは、なんら矛盾することではない。『Still Life』はそんなことをリスナーに語りかけてくれる作品であるように思う。

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