鱈とレバー

 銭湯に行ったら、高校生とおぼしきボーイズ5人ぐらいが賑わっていた。

 ほんとうのところ、私は賑やかな若人たちがそんなに得意ではない。とはいえかれらにとって、友だちと連れ立って銭湯に来るなんてちょっとしたイベントだろうし、ここで変に目くじらを立てるのも大人気ない。大人気ないし、だいいち疲れるのは自分だ。盗み聞きにならん程度にかれらの会話をBGMにしつつ、努めて寛ぐ気持ちでいた。

 

 すると、ワンノブザボーイズが矢鱈と「たられば」というワードを使いたがることに気づいた。

 

 「この前の数学の期末さぁ、おれ絶対もっと勉強してれば満点取れたと思うんだよねー」

 「いやお前それはたらればだわ」

 「もっと早く告ってれば付き合えたかなー」

 「うーんそれはたらればじゃね?」

 

 覚えたての単語を使いたい時期というのは誰しもある。私だっていまだに「アジェンダ」とか「イシュー」とか言いたくなるときがある。

 かれはきっとYoutubeかXで(偏見かしら)「たられば」という言い回しを学んだのだろう。そして今はきっと、友だちとの会話のなかでたられば要素を見つけ出し、すかさずツっこむゲームを楽しんでいるに違いない。さながらたられば警察だ。

 

 そういえば最近は「たられば」をしなくなったなあ、と思う。今の仕事がそれなりにリズムに乗っているし、プライベートはプライベートである程度やることもあるので、ありていにいえば「たられば」をする暇がなくなったのだろう。基本的に「たられば」は後ろ向きな発想・行為だと思うので、精神衛生的にはよいのだろうと思いつつ、そういうことを(ある意味で楽しみつつ)する機会が減ったのは寂しいことのような気もする。

 

 ちなみに、もし今の編集の仕事をしていなかったら、私はシステムエンジニアをしていたはずである。就活では30ぐらいの会社に落ちた。今働いている会社のほかに内定をもらっていたのは2社だけで、どちらも就活エージェントに紹介してもらったIT企業だった。

 もしかしたら進んでいたかもしれない道ということで、出版社に内定をもらってからもしばらくはプログラミング言語のことを調べたり、システムインテグレータの業界構造をさらったりしていたが、それもいつしかしなくなってしまった(当時買ったPythonのテキストは、一応捨てずに置いてある)。

 いわゆる語学の勉強は嫌いではなかったから、曲がりなりにも言語であるプログラミング言語の勉強ももしかしたら捗ったかもしれないし、今ごろ敏腕エンジニアになっていた未来もあったかもしれない。ま、それもこれもすべて「たられば」ということである。