2024年8月 Books

 8月。結構やることはあったものの、今の時期に読んでおきたい本が何冊かあったので、時間を見つけて読み進めた。

 

1.金ヨンロン『文学が裁く戦争東京裁判から現代へ岩波書店岩波新書

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 犯罪を裁くのは、法律である。では「文学が裁く」とはどういうことか? 小説や詩、あるいは文芸批評が戦争という巨悪をどう「裁く」というのか? 本書は、そんな問いに対するひとつの回答集であるといえそうだ。

 本書が最終章に至るまでの主軸とするのは戦争裁判、それも第二次世界大戦時の日本の指導者を対象とした通称「東京裁判」である。はじまりは林芙美子浮雲』や遠藤周作『海と毒薬』など、実際に戦争を見て経験した作家らによるものから、直近では村上春樹羊をめぐる冒険』に至るまで、幅広く戦後の作品をピックアップする。そして、ベトナム戦争や高度経済成長など、その時代ごとの事件を精査しつつ各作家がどのように東京裁判を捉え、作品に落とし込んだのかを検証していく。

 作家自身の思想や、戦時中どのような社会的地位に立っていたかによって当然戦争裁判の見え方は異なり、決然と戦犯を非難するのか、あるいは擁護するのかも違うし、さらには(whataboutismなのかもしれないが)アメリカによる戦争犯罪はなぜ許容されているのか、という点を指摘する人もある。とにかく、多様な「可能性」について読み手が考えることを促される印象だ。

 判例に従いつつ、原則として「これ」という正解を導くのが法律の言葉の仕事であるならば、一度判決が出た後であっても「あれってこうだったんじゃないか」という仮定を提示し、構成に再考を促すことができるということが、文学の言葉に託された意義なのかもしれない。

 「危機の時代に文学に何ができるのか」というようなことを考えたことがある人は、是非読んでみてほしい。

 

2ヤン・ヨンヒ『カメラを止めて書きます』CUON

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 ドキュメンタリー映画の監督である筆者による、今までカメラで撮ってきたものごと、人々に関するビハインドストーリーを中心としたエッセイ集。滋賀は東近江市の小さな(ほんとうに小さな)書店、六月の水曜日で買った。北朝鮮の旗を握った少女を映した表紙が、妙に気になった。

 在日コリアンとして朝鮮学校に通い、両親ともに北朝鮮の支持者(父は済州島出身の、朝鮮総連の活動家)。3人の兄は帰国事業によって「帰国」し……と、シンプルではない家族の歴史をもった筆者は、日本にとどまりつつその家族にカメラを向け続けてきた。

 映像監督としての筆者の仕事は、家族と国家、そして自身の出自と向き合う深く重い時間だったのだと思う。それに付随する苦悩や痛みは、他者である私が想像できる範疇をとうに超えるものだろう。しかし筆者自身はこうも語る。

「わかり合うためには相手の記憶を共有する努力がもとめられる。当事者にはなれないが、計り知れない他者の人生を理解するのは不可能だが、せめてアウトラインくらいはわかっていたいという謙虚な共有。そのためには知ることだ。事件と事実を、感情と感傷を、そして言葉にならない想像と妄想までもを。」(p.207)

 日本に生きているなら誰もが当事者であるにもかかわらず、ともすれば「ややこしい」「わからない」という言葉を免罪符にして敬遠されがちな(北)朝鮮にまつわるストーリーは、しかし、今こそもっと広く知られるべきであるように感じている。メタ的だが、まさにこの本は多くの人にとって「そのためには知ることだ」に答えるきっかけになりうる作品だと思う。

「日本と朝鮮半島の歴史と現状を全身に浴びながら生きてきた私の作品が、人々の中で語り合いが生まれる触媒になってほしい。そして私自身も触媒でありたい。生きている限り、伝え合うことを諦めたくないから」(p.10)

 

3.永井玲衣『世界の適切な保存』講談社

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 「問いが生まれて、消えていく。問いはこわれやすい。気まぐれにやってきて、わたしたちに何かをささやき、とらえきれないままにどこかへ行ってしまう。だからわたしはあなたの問いの手をつかんで、適切に保存せねば、と思う。だが、どのようにして?」

 この夏、はじめて永井さんが司会を務める哲学対話に参加した。CandlelightとSpiral Clubの企画で、会場は小金井市の「とをが」(本ブログ全記事参照)。「『わかる』とはなにか?」という、わかりそうでわからない(メタい)テーマで話した。最低限のルールはあれど、自由で、肩肘を張らなくていい、貴重な時間だった。

 その哲学対話でもいくつか「これはとっておきたいな」という意見や言葉があり、メモをとるのだけれど、それが「適切な保存」なのかどうか。たぶん違う。じゃあ「小れはとっておきたいな」という瞬間はどうやってとどめおけばよいのだろう?

 本書には「適切な保存のしかた」が書いてあるわけではない。むしろ保存ということについて永井さんご本人が日々悩み考えていることの記録というべきかもしれない。でありながら、読み進めるごとに、自分の手の中にある何か確信のようなものの重さが、ズンと存在感を増していく気がするのはなぜだろうか。

 p.241〜『手渡す』は、直近のパレスチナの状況を反映した内容である。そこでは、イスラエルパレスチナの歴史的経緯をよく知らなかった学生時代の「パレスチナのところ、めんどいな」という思いが、「内側からの声」としてふと自分に届く瞬間が記されている。それはとりも直さず、私自身にも覚えのある「声」であるということに気づく。かぎりなく個人的な内容に、もうひとつの個である自分の記憶がつながり、こう言ってよければ「確信のようなもの」に質量を与える。

 とにかく、この本を読んでいてそういう瞬間が数回あった。なかなか一度読んだだけでは言語化できない感覚なので(できなくていいのかもしれない)、時間を置いてまた読んでみたい。

 

4.椋本湧也(編著)『日常をうたう』

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 28人の書き手による2023年8月15日(火)の日記を集めた本。タイトルである『日常をうたう』には戦争を想起させるワードは入っていないものの、明確に「終戦の日」をひとつの指標とした文集になっている(「戦争とは日常を奪うものであり、何気ない日常こそが私たちを存在させてくれているのではないか、と」。「はじめに」より)。

 そして、本書の重要な軸となるのが椋本さんのお祖母様のインタビューである。上に引用した「戦争とは〜」の一文も、お祖母様が「戦争が終わって一番嬉しかったこと」を受けてのもの。そして、本書に収められた文章はすべてただ書かれたのではなく、各書き手がインタビューの音声を聴いたうえで記されたものだ。加えて、その文章を朗読するというプロセスも存在する。

 日常をただ日常としてメモするのではなく、(悪い意味も含めた)非日常の存在を意識して銘じること(記録に/記憶に)。その意味をこの本は考えさせてくれる。

 全体にして160ページほどの決して長くない本だが、じつはこれは「読み終わったから終わり」の本ではない。先述のインタビュー音声へのアクセスと、次なる読者のアクションへの案内がついており、言ってみれば本書のコンセプトに「参加」することができるようになっている。語り継ぐ、あるいは記し継ぐということを(本という媒体を通して)どのように実践していくか。インターネットという技術も味方につけた、新しい本のありかたという意味においても学ぶ点が多くある。

 

5峠三吉『新編 原爆詩集』青木書店

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 「ちちをかえせ ははをかえせ

  としよりをかえせ

  こどもをかえせ

  わたしをかえせ わたしにつながる

  にんげんをかえせ

  にんげんの にんげんのよのあるかぎり

  くずれぬへいわを

  へいわをかえせ」

 (p.9序)

 

 広島市平和公園を訪れたことがない人でも、上の詩を読んだことのある人は多いと思う。私自身、この本を名古屋の古書店で入手したそのときは、まだ広島市にすら足を踏み入れたことがなかったと思う。それでも、このひらがなで綴られた詩にはしっかりと見覚えがあった。

 この詩を作った人が峠三吉という人で、36年の短い生涯の大半を広島で生きた人だった(生まれは現在の大阪・豊中のあたりで、そこにも詩碑があるそう)。幼少期からの持病があって体が弱く、最期も肺の手術中に体力が尽きて亡くなったらしい。一方で地元・広島の文化振興に精力的に取り組み、詩作だけでなく文芸誌の編集をし、公務にもついていたようだ。行動だけ見ればパワフルですらある。気力に体力が追いついていかない苦悩はいかばかりであったか、言葉もない。

 

「そのしずかな微笑は

 わたしの内部に切なく装填され

 三年 五年 圧力を増し

 再びおし返してきた戦争への力と

 抵抗を失ってゆく人々にむかい

 いま 爆発しそうだ」(「微笑」、pp.93-94)

 

 その詩の言葉から感じられるのも、第一には戦争への怒り、平和への祈念を根源とする力強さである。祈りとは決して静謐なものばかりではない、読み手の肩をつかんで揺さぶり、歴史に目を向けさせる祈りの言葉もあるのだ。そんなことをこの詩集は思わせる。

 なお「にんげんをかえせ」がひらがなで書かれているのは、朝鮮戦争時にアメリカが核兵器の使用を計画していたという話を聞き、そのようにしたという。

 

6.左右社編集部(編)『海のうた』左右社

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 歌集は2〜3年ほど前の一時期に妙にハマり、よく読んでいた。それがここ最近あまり手に取っていなかった。別に短歌が好きでなくなったとかそういうことは全くなく、まあこういうのは巡り合わせによるところが大きいから、単に自分にとって最近は「短歌のフェーズ」ではなかったということなのだろう。これも人が読んでいるのをみて手に取った。

 帯には「同時代の歌人100人がうたった100首の〈海〉の短歌アンソロジー」とある。中に収められている短歌は、「海」という語を含む/含まないの違いはあれど、いずれも海を題材としたものになっている。また「同時代の歌人」と但し書かれてはいるものの、笹井宏之のように既に他界している歌人の作品もある。いずれかの時点で生きた時間を共有した人たち、ということか。

 なんとなく海といえば夏のような気がして(そしてこの本が夏に発行されたということもあって)、私はこの本を夏に読んだわけだけれども、実際はさまざまな季節の「海」が本書の歌には詠まれている。もう少し寒くなってからもう1度読んでみてもいいかもしれない。

 あと、装丁がとてもいい(それこそ夏の海岸の空を思わせるような、濃い碧に、白い雲あるいは泡立つ波のような白抜きの文字)。歌集は魅力的な装丁のものが多くて好きである。

 

7レイモンド・ブリッグズ 小林忠夫訳『風が吹くとき』篠崎書林

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 ロンドナーらしい皮肉の効いたユーモアが笑える『さむがりやのサンタ』や、切なくも温かい『スノーマン』などの作品で親しまれている絵本作家レイモンド・ブリッグズ。この『風が吹くとき』は彼の作品のなかでもかなり異色なものの1つだと思う。

 かなり有名な絵本なのであらすじもよく知られていると思うが、改めて読んでみると大筋はシンプルながら、細かい台詞回しなどに目が留まる。ドイツやソ連に対するステレオティピカルな眼差しや、日本で発せられるそれよりもかなり軽い調子を伴う「HIROSHIMA」という地名。きっとかの地で今も多く暮らしているであろう「楽天家でおしゃべり好き、政治的にはいくぶん保守的な中高年イギリス人」を巧みに描くブリッグスの筆致に唸る。

 作中、核兵器が使用されて以降のページはただひたすらに寒々として痛ましい。主人公の老夫婦は一見して大きな怪我もなく、以前の調子で核兵器投下後の世界を生きていくかのように見える。けれど少しずつ、しかし確実に彼らを描く線は歪み、世界から色が消えていく。特に最後の数ページがまとう空気感は、児童書とは思えないほどぞっとするものだ。こうした描写は絵本ならではのものだろう。

 「もともと一流の児童書というものは大人にも子供にも深い感動を与えるものなのです」と訳者によるあとがきに記されている。今、大人こそが読むべき絵本だと私も思う。

 

8スタインベック 大浦暁生訳『ハツカネズミと人間』新潮社(新潮文庫

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 この本をはじめて読んだのは中学生のときだったか。今回も実家の本棚を眺めていて目につき、久々に読んでみた。何度読んでも遣る瀬なく、悲劇的な話である。淡々とした文体のおかげか、重苦しさはあまりないものの。

 改めて読んでみるに、スタインベックはこの短い物語のなかで多くの社会的弱者やマイノリティ性をもった人物を登場させている。まず前提として、大恐慌時代のアメリカを舞台としている作品であり、主人公のふたり(「ジョージ」と「レニー」)は経済的弱者だし、そのほか農場に集う人々もそうだ。そのほかにも人種的マイノリティ、知的もしくは身体的な障害をもつ人々が描かれている。また、飄々としてかつ高飛車な人物として描写されている「カーリーの妻」も、作中で唯一ポジションが明示される女性として、性的な不均衡を生きる存在として物語に座している。

 今よりもずっと差別が差別と認識されないまま横行していた時代にこういった存在に目を向け、物語に落とし込んでいる点には改めて感嘆する。そして、当時の社会で弱者が直面する現実をそのまま、ある意味で救いなく書いているところもスタインベックスタインベックたる所以かと思う。彼らの運命がこれでよかったのか、物語がこういう終わりかたでよかったのかということすらも、読者に委ねられているような気がする。

 

9.ジャン−ポール・サルトル編著 平井啓之・田中仁彦訳『反戦の原理 アンリ・マルタン事件の記録』弘文堂

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 この本が出たのは1966年。トンキン湾事件での米軍の介入が1964年だから、ベトナム戦争が本格化してしばらく経ってからの翻訳・発行であり、まえがきにも同戦争への言及がある。サルトル自身も61歳で存命だった。

 題材は「アンリ・マルタン事件」という出来事で、1950年、フランス海軍に所属していたアンリ・マルタン二等兵曹が反戦ビラを軍内に配布したかどで逮捕されたというもの。当時は、第二次世界大戦終結後すぐに始まったインドシナ戦争のさなかだった。マルタンの行為は「軍の士気撹乱」を企てた敗戦主義者として糾弾され、裁判では重禁固5年の判決が下される。

 本書は、マルタンの釈放運動の一環としてまとめられたものだそう。マルタンの書簡や訴訟記録、同時期に起こった別の事件(仏軍の航空母艦「ディクスミュド号」におけるサボタージュ事件)との比較検討などを経て、マルタンの行動の正当性と、インドシナにおける戦争や司法の過ちを詳かにしていく(その総編集をサルトルが担当した、という感じ)。

 

 「憲法は共和国軍隊は決して他国民を虐げるためにつくすことはないと語っています。(中略)われわれはベトナム国民と了解し合う手段を見出し得るはずでした。ベトナムは独立したのです。(中略)しかし今日ベトナムを攻撃しているものは一体誰なのか。ベトナムはまさにフランスによって攻撃されているのです。これこそ憲法を侵すことではありませんか。(p.137)」

 

 法廷でのマルタンの言葉は、現代の感覚からすれば当たり前のように思えるものですらあるが、戦時下という状況においては罰せられるべきものだったのだろう。しかし、そうしたことが過去のことではない場所も、まだ地球上には存在している。それゆえに、このような「反戦の記録」はこれからも記録され、読み継がれていかなければならないのだろうと思う。

 

10.ラシード・ハーリディー著 鈴木啓之・山本健介・金城美幸訳『パレスチナ戦争 入植者植民地主義と抵抗の百年史』法政大学出版局

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 1917年のバルフォア宣言からイスラエル建国に伴って起こった「ナクバ」、4度の中東戦争レバノン内戦、そして現在のパレスチナの状況に至るまでのできごとを、6回の「宣戦布告」に分けて解説した歴史書。著者はアメリカ生まれのパレスチナ政治学者で、1991年〜1993年にマドリードとワシントンで行われたイスラエルパレスチナ間の和平交渉に参加し、ヤースィル・アラファートとも直接意見を交わした経験ももつ。パレスチナの動向を文字通り第一線で見てきた人物である。

 「中東戦争」や「インティファーダ」といった、パレスチナの歴史を追っていくと必ず現れるワードが具体的に何をさすものなのか、順を追って丁寧に見ていくことができる本で、「イスラエルパレスチナ」の辿ってきた歴史を前史も含めて学びたいと思った際には必携の1冊と思う。特にレバノンやヨルダンといった近隣のアラブ諸国との関係や、PLOの失策、ファタハとハマースの登場など、パレスチナサイドの為政者の動きについても詳しく、かつ批判的に記されている。こうした記述を読んだのは本書が初めてだったので、とにかく勉強になった(その声を拾われないまま武力攻撃の犠牲になるのは、常に市井の人だった。これは100年前からずっと変わらないことのようだ)。

 そして、中盤以降ほぼすべてのフェイズで不気味な存在感を保ち続けているのがアメリカである。「パレスチナ戦争」という歴史的出来事において、(むろん悪い意味で)外伝主人公のようなポジションにいる。イスラエル建国以降、この国にアメリカがどう関わってきたかを知りたい場合にも、本書の解説はわかりやすくかつ詳しい。パレスチナ、ひいては中東全体の状況を考えるときに避けては通れないトピックだと思う。

 

11原民喜『小説集 夏の花』岩波書店岩波文庫

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 同じ本を何度も読み返す、ということを普段から行っているわけではない。が、その「何度も読み返す」をやっている数少ない本がこの『夏の花』である。毎年8月に、新しく読む本に含めてこれは必ず読み通すようにしている。

 もちろんあらすじもわかっているし、登場人物の台詞回しなどもだんだんと覚えてきた。一方で、読み返すたびにその印象を深め続けていく本だとも思う。

 今年はp.62「壊滅の序曲」が妙に脳裡に染みついた。原爆投下の前夜譚であり、表題作のような投下後の惨状を描いてはいない。敢えて言うならば戦時中ながらも平穏な日々の風景を綴った物語である。しかしそれが、最後の最後「……原子爆弾がこの街を訪れるまでに、まだ四十時間あまりあった(p.114)」の1行、このたった1行でもってこの物語のもつ意味が一気に変容する。

 戦争という状況下にほんとうの平穏などないということ、今生きている日常を手放したくないと思うならば絶対に戦争を我々の側に近づけてはいけないということが、改めて身にしみる。

 

12.宇佐見りん『かか』河出書房新社河出文庫

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 宇佐見りんさんの初読は、2020年の『推し、燃ゆ』が最初。じつはこの『かか』は長らく未読だった。

 あらすじを知ったうえで読んだのだが、やはり文章の表現力というか、多様な地方ルーツの家族を想起させる西日本の諸方言とオリジナルの語彙を織り交ぜた不思議な(しかし意味は通じる)言語だとか、19歳にしては幼くも思える言い回しだとか、そういった「意図された落ち着きのなさ」の表現が凄まじいと思った。

 いろいろな本を読んでいると、特有の「温度」を感じるというのがあるのだが、この本がそうだった。それも、熱すぎず冷たすぎもしない。言うならば人間の体温、36.5℃ぐらい。お湯にしては生温く、気温だったら気が滅入る、しかし人間の体温なんだったらごくごく正常、そんな温度。体温として感じられるほどに「人間」という存在を真摯に観察し、綴られた文章だからかもしれない。