2024年6月 読書記録

 今月はノンフィクションを中心に。日記やエッセイの面白いところは(何度も言っている気がするが)個のなかに普遍が浮かび上がってくるところだ。それは単なる同意にとどまることなく、ある「真理」に近づいていくことすらある。

 翻訳は今月はほぼ読んでいない(読み途中、のものはあるが)ので、夏に向けていくつか読んでいこうと思う。

 

1.大崎清夏『私運転日記』twililight

twililight.stores.jp

 気になっていた三軒茶屋の書店さん、twililight。行こう行こうと思いつつなかなか足を運べず、結局ことしの4月に開催されたCandlelightのイベントに合わせて伺ったのが初訪問となった。実店舗をもついわゆる「リアル書店」であると同時に出版社としての側面もお持ちで、この『私運転日記』も出版社・twililightからの発行である。で、買ったのが書店としてのtwililight。なるほど、書店と出版社を両方やると、こういう本との出会い方ができるのか。

 本の内容に移る。著者の大崎清夏さんは詩人で、これまでに出された本も詩集、絵本が中心のよう。そんな方の、自分にとって出会いの本がエッセイ集であるこの『私運転日記』でよかったのかどうか、でも手にとってしまったのだから仕方あるまい、大崎さん作品とのファーストコンタクトをこの本として、ページをめくった。

 結論、とても豊かな読書体験だったと思うし、次はぜひ詩集を読んでみたいなという気持ちにもなれたのでよかったのではないかと思う。長年生活を共にした方とのパートナー関係の終了、それに伴うお引っ越し、そして五島列島福江島での免許合宿の日々のこと。あくまで個人的なエピソードの集成であるのに、そこにはなにか普遍的な人としての在り方、言葉の使い方にかかわる大切なことが記されているように思える。そこここに入ってくる原稿や書評の仕事に関する記述も、なにかリアリティがあってよかった。

 ちなみに大崎さん、前回の文フリでどうやらニアミスしたっぽい。いつかお目にかかってご感想などお伝えしたい。

 

2.あかしゆか『THE DAYS OF aru』

c.bunfree.net

 数か月ほど前から(半ば勝手に)参加させていただいているSILENT BOOK CLUBという読書会がある。事前に決まっているのは時間と場所だけで、めいめい好きな本をもってきてひたすら黙って読む。これがどうしてなかなか、とてもワクワクする企画なんである。『26歳計画』の椋本さんと共にこの読書会を企画されているのがあかしさんだった。

 あかしさんは編集やライティングなどのお仕事と並行して、岡山は倉敷市で「aru」という書店をされているとのことで、そこでの日々を綴ったのが本書。ちなみにこれも前回の文フリで買った。

 aruのこと、そしてaruをとりまく人々のことが丁寧に、そして衒いのない言葉で記されている、とても温かな本だったように思う。お店を経営するということはほんらい苦労の連続だろうと思うし、実際にaruを運営していくうえであかしさんが模索されたことも、本書には書いてある。しかしそれは決して愚痴っぽくなることなく、むしろ読んだことでaruに行ってみたいと思えるような、そんな文章だったのが印象的だった。

 とくに、「店の調子は日によって変わる」という話が興味深かった(p.51「店は生きている」)。初めて行ったときに好印象だった店にしばらく時間をおいて行ってみたら、どうもしっくりこないということがある。そんなとき、「本当は好みの店じゃなかったのかな」とか思いがちだけれど、また数か月おいて行くと、やっぱりいい感じ……。店の調子が日によって違う以上、なかなか1回でその本質はわからないのだ、と。

 aruは、けっして東京から近いお店ではない。だけど、きっと近いうちに行きたいなと思っている。

 

3小林秀雄/岡潔『人間の建設』新潮社(新潮文庫

https://www.shinchosha.co.jp/book/100708/

 文学の大御所と数学の大御所による対談……本書の言葉を借りれば「雑談」を集めた本。文庫にして200ページもないコンパクトな本だが、含蓄に富んでいて面白い。

 小林 今日は大文字の山焼きがある日だそうですね。ここの家からも見えると言ってました。

 岡 私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。(p.9)

 この書き出しからしてもう惹かれるものがある。岡潔のほうが関西出身で、京都という街とも縁の深い人だったはずだが、こういう意見もあるのだと思った。

 そういえば、2年ほど前に五山の送り火(いわゆる「大文字焼き」という呼び方は京都以外の人間が便宜的に使うものだそうで、京都の人の前で使うと直される)で大の字を表す如意ヶ岳に登ったことがあった。実際に火を灯す場所まで行けるのだが、案外人工的なコンクリートのブロックが並んでいて拍子抜けした記憶がある。

 「学問とはなんたるや」「文芸とは」「酒とは」など、トピックは幅広く、その一つ一つが新たな気づきに満ちているのだが、なかでも「数学は感情的な同意がなければ成立しない」という話が面白かった。

「(前略)数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。」(p.39)

 数学というのはむしろ感情を極限まで排した、純粋なロジックによってのみ成り立つ学問とばかり思っていたので、この感覚には驚いた。岡潔の単著『春宵十話』も読んでみたくなった。

 

4.斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』岩波書店

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 日本における韓国文学の翻訳・研究の第一人者である氏による読書エッセイ集。しぜん韓国文学、朝鮮文学への言及は多くなるものの、日本を含む他の地域の作家や児童文学も登場する。

 「黄色い本のあった場所─「チボー家」と私たち」(1がp.1〜、2がp.9〜)で語られる、子ども時代に読んだ本を大人になってから読み返したときの驚き─それは必ずしも前向きなものばかりであることを意味しない─と、その驚きに対する自身の人生と重ね合わせながらの分析。「結核をめぐる二つの物語」(p.31)で記される、作家に求める「役割」の変化。

 それなりの期間にわたって読書という営為を続けていると、ある程度は誰もが経験しうることがいくつかあると思うが、そうしたことを丁寧にピックアップし、言語化していく筆力に感嘆する。このことは、韓国文学・朝鮮文学という(西欧文学や日本における日本文学と比べれば)見過ごされてきたものの価値を受け止め、長きにわたって翻訳というかたちで世に送り出してきた氏の仕事と、いくぶん重なる部分があるのだろうか。

 本書に収められたいくつかの文章には共感も覚える一方、当然ながら今の自分にはまだまだ手の届かない境地にある文章も多い。何より、文学に触れるうえでの女性ならではの視点は、こうして書かれた言葉を丁寧に読んでいくほかに、男性である自分には手立てがない。例えば、先述した「同じ本を子どもの頃に読むのと大人になってから読むのでは印象が違う」という事象ひとつをとっても、28歳の男性がそう思うのと、家庭をもち、子どもの独立まで経験した女性がそう思うのとではまったく内実が異なると思う(どちらが良い/悪いではもちろんなく)。そしてとりも直さず、そうした差異があることは、本書のような作品が私にとって必要な理由でもある。

 

5司修『戦争と美術』岩波書店岩波新書

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 昨年の10月にカズオ・イシグロの『浮世の画家』を読んだ。軍国主義の時代に戦意高揚のための絵画を描き、名声を得た画家が戦後の文化的な転換期を経験して苦悩する……といったストーリーである。

 この本で主題に置かれているのが、まさに『浮世の画家』のような存在である。すなわち、国民の戦意を高揚させる手段としての絵画、「戦争画」を描いた画家たち(本書では特に藤田嗣治松本竣介がピックアップされている)のことである。画家でもある著者は、芸術家の戦争協力に対して批判しつつも、当時の弾圧や統制の状況を丁寧に紐解きながら藤田、松本らの置かれた立場を分析していく。さらには、「戦争画」をはじめとする戦中の状況に戦後美術が向き合ってこなかったことにも批判の目を向ける(「とにかく戦後美術は、戦争責任を放って突進して行ったことだけは確かなのです(p.174)」)。

 しかしながら、本書をめくる手を止めて沈思せずにはいられなかったのは、じつは冒頭ページだった。人々の戦意高揚を目的としない「戦争画」として、ジョセフ・コサコフスキの「convoy to slaughter」が紹介されている。ホロコーストの犠牲となったユダヤ人の姿を描いた絵であり、筆者はこれを「「大東亜戦争画」のように宣伝のためではなく、人間的な訴えであり記録です(p.4)」と語る。それはきっと確かなことなのだろうと思う。

 この絵は、イスラエル国会議事堂に展示されているのだという。この、戦争の、虐殺の悲惨を真摯に描いたはずの絵を見て、イスラエル政府の人々は何を思ったのだろうか。あるいは、今のイスラエル政府の行動を見て、何を思うのだろうか。そう思わずにはいられなかった。

 

6萩原朔太郎作/清岡卓行編『猫町 他十七篇』岩波書店岩波文庫

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 じつは初めて読む萩原朔太郎の「小説」が、この『猫町』だった。朔太郎は詩人として紹介されることが多いし、実際に自分が読んだことのある朔太郎作品も詩がほとんどだった。というかこの小品集も1/3ぐらいは詩である。

 まあ『猫町』という可愛らしいタイトルの本で、しかもこの本を買ったのが世田谷区某所にある、本当に猫のいる書店だったので、勝手に何かこう、キュートでハートウォーミングな物語を想像していた。

 全然違った。生活に疲れ切った男のバキバキバッドトリップ小説であった。冒頭では「久しい以前から、私は私自身の方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた(p.10)」とかなんとか言っているが、なんのことはない、完全にクスリの力を借りている。なにが「私自身の方法」か。それで、トリップ中に人間の姿を借りた猫たちが跋扈する街に迷い込んでしまうという話。それで最後には、そんなものは詩人ならではの妄想の産物だろうと笑う人もあるかもしれぬが、私は猫町の存在を信じている、といって締めるのだからすごい。時代的な不安感のあらわれなんだろうか。続く『ウォーソン夫人の黒猫』もかなりブラックな話。

 それでいて、散文詩や随筆はえらく生活感もあり、それこそ書き手の体温が伝わるような感覚すら覚える。なかなかまとまった言葉で感想を述べるのが難しいが、小説、詩、随筆、それぞれを書くときの回路というか、頭の使い方が結構違う人だったのだろうなと勝手に想像する。

 

7.島田潤一郎『長い読書』みすず書房

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 尊敬する出版人のお一人である島田潤一郎さんの最新刊。本、そして読むことにフォーカスを当てたやさしい(必ずしも「易しい」ではない、しかし確かに「優しい」)文体の散文集である。ちなみに大森・あんず文庫さんで買わせていただいたサイン本だ。嬉しい。

 気の利いた含蓄が込められた名言だとか、ガツンと眼目を奪うキャッチコピーだとか、そういうことではないのだが、なにか心のどこかをしかと掴み、ずっとそばに置いておきたくなるような言葉に満ちた本だと思う。

 また、タイトルから単純に想像されるような「長大な小説を読破したときの喜び」だけをアピールしている本でもない(「だけを」、と記したのは、p.61「すべての些細な事柄」という章で『失われた時を求めて』を読み終えたときの喜びについては書いておられるからだ)。背表紙には「小説を読み始めた子ども時代、音楽に夢中でうまく本が読めなかった青年期から、本を作り、仕事と子育てのあいまに毎日の読書を続ける現在まで」とある。本を読めない時期も含め、人生全体を読書の時間と捉える……。そういった具合に『長い読書』という言葉を噛みしめると、なんだかよりこの本が温かく、親しみ深く感じられる気がする。やっぱり本が読めない時期ってあるし、でもそこを読書人生の「空白」と言いたくはない気持ちもまたあるので。

 p.25「江古田の思い出」は、江古田が今の自分の住まいであることとも相まって楽しい気持ちで読んだ。大学の他キャンパスに他学部の授業を受けにいくやつ、自分もやったなー。

 

8.松原文枝『ハマのドン 横浜カジノ阻止をめぐる闘いの記録』集英社集英社新書

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1165-b/ha.co.jp/kikan/1165-b/

 昨年の今ぐらいの時期だったか、渋谷のユーロスペースの前を通りかかったら『ハマのドン』なる映画のポスターが大きく貼られていた。横浜市には学生時代に7年間住んだし、カジノ誘致のあれこれも気になっていたところだった。だから、カジノ反対の立場で市民と共に動いた「保守の大物」の実録物語とあって、「是非そのうち観よう」と思ってその時は通り過ぎた。で、観ようと思っているうちに上映期間が終わった。こんなことばかりしている。

 映画と同名の本書は、そのドキュメンタリーが公開されるまでの記録を収めた本である。横浜港で港湾荷役・倉庫業を営む藤木企業の会長にして横浜港振興協会会長である藤木幸夫。長年の自民党員であり、横浜に強い地盤をもった菅義偉元首相とのパイプも太い。そんな藤木氏が、国策と相反するカジノ阻止のサイドに立ち、横浜市長選に取り組む……と、そういったストーリー。

 端的に言って、かなり面白い本だった。政権とつながりが強いはずの藤木氏がなぜカジノに反対するのか、藤木氏の周囲の反応はどうだったのか。そういった藤木氏のルーツに関わるところから、実際の市長選での立ち回りなど、臨場感をもって描かれているのは、流石にプロジャーナリストの腕を感じる。

 

9.柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書

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 歴史の本を読んでく習慣、4か月目に突入。今回はユーゴスラヴィア

 検索エンジンで「外務省 渡航情報」と調べると、世界各国が(日本人が渡航するにあたって)どのくらい危険なのかを色別にまとめた地図を見ることができる。ヨーロッパを見てみると、ウクライナは「危険レベル4(最大)」であることを示す赤。ベラルーシとロシアも「危険レベル3」の濃いオレンジ色に塗られている。

 そのほかのヨーロッパ諸国は特に危険もなく真っ白であるかのように見えるが、よく見るとバルカン半島の一部地域には「危険レベル1」を示す黄色い印が点在している。戦争が終わった今もまだ、地雷が埋まっているのだという。さらに、コソヴォセルビアの国境付近には少し濃い黄色が塗られている。

 このように、ヨーロッパのなかでもごく最近まで戦争があり、その影響が現在に至るまで残っているのが東欧、とくに旧ユーゴスラヴィア諸国の印象である。その理由を知るには、やはり歴史を追っていくことが必要になる。

 自分としてはボスニア・ヘルツェゴビナコソボのこと、それとセルビアクロアチアの関係について知りたいところだったので、その辺りが順を追って詳しく解説されており勉強になった。特に大きな「ユーゴスラヴィア」という国が存在していた時代(「第一」「第二」とある)、中心的な役割をになっていたのがセルビアだったようだ。

 初出は1996年だが、2021年に新版が出た本で、ユーゴ史が直近の30年でさらに大きな変化を続けてきたことがうかがえる。

 

10四方田犬彦『見ることの塩 上 イスラエルパレスチナ紀行』河出書房新社河出文庫

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 小説から映画、漫画に至るまで、幅広い領域をカバーする文学研究者である筆者による紀行文集。決してその数は多くないであろう、自らの眼をもってパレスチナの地を見てきた日本人による記録として、非常に貴重な書物であると感じる。

 筆者は2004年に文化庁の文化交流使節として、テルアヴィヴ大学に半年間所属した。その際にエルサレムや、パレスチナヨルダン川西岸)を訪れたとのこと。そのため、イスラエルから見たアラブ社会のことや、イスラエル国内におけるユダヤ人社会の差別構造(たとえば、アシュケナジームと呼ばれるドイツ〜東欧系のユダヤ人と、ミズラヒームと呼ばれる中東・カフカス系、さらにエチオピア系、ロシア系との間には明確な格差がある)などが本人の目を通して詳細に記されており、イスラエルユダヤ人社会の「一枚岩でなさ」がわかる。イスラエルの知識人として徹底したシオニズム批判を展開しているイラン・パペとも面会し、対話している。そこでは、パペがパレスチナにおける民族共存の思想を持つに至ったことについて、アラブ人も多く住むハイファに生まれたことが影響しているのではないかということについて同意を得ている。

 パレスチナでの滞在では、厳しい検問所のこと(ドライバーが「日本人を乗せている」といえばスムーズに通れるということもあったようだ)、パレスチナの人々の「生活」について、これもまた詳しく語られている。当然ながらかの地の人々も日々寝起きをし、食事をとって仕事をしているわけだが、そうした日常のなかに、当たり前のように理不尽な暴力が介入してくる。それは1948年以降、ずっと起こり続けてきたことでもあった。改めて、ごく最近までそのことを知らずにいた己の不覚を思う。

 本書の初出は2004年で、今回読んだのは2024年3月に文庫化されたもの。昨秋から現在に至るまでのパレスチナの現状もふまえ、追補が記されている。そこには、実際にパレスチナの地を経験した人としてのかの地への思い、そして日本でのガザ侵攻反対運動に対する思いなども示されている(現在はあまりそういった印象は受けないが、ガザ侵攻が始まった当時は自分が言いたいことのダシにガザ侵攻を利用するような言説(をする人物)が多かったらしく、そこには大きな失望感も覚えたという)。

 もちろん、本書の一言一句すべてに同意するわけではないし、現地に行ったことのない自分のような人間にもなんらかできることがあるという思いは変わらない。しかし、改めて、パレスチナに「本当に行ったことがある」人の日本語で読める貴重な記録として、今読むことができてよかった。