お忙しいところ/ご多用の折

 手帳に今月の予定を書き込み、しげしげと眺めていたら、ふと「今月のおれは結構忙しいかもなぁ……」と思い至った。もともと自分で自分のことを「忙しい」と称することに漠然とした小っ恥ずかしさがあって、独り言レベルでもあまり言えないでいたのだが、このときはなんとも素直にそう思った。

 

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 数年前にはじめて結婚式に出席した折、「忌み言葉」というものについて一通り勉強した。「別れる」「切る」といった言葉は当然NGだが、組み合わせや発音によって縁起の悪さを想起させかねない言葉もNGである。そのラインでいうと「忙しい」もNGだ。「心(りっしんべん)」を「亡」くす、と書くからダメなのだそうだ。

 それでは、例えば仕事の合間をぬってきてくれた人にはなんと言うかというと、「ご多用の折にありがとうございます」と言えばよいらしい。なるほどね。

 忌み言葉の類は気にしすぎるのも考えものだが、それぞれの由来自体はけっこうとんちが効いているものも多く、日本語の面白さを実感する文化である。

 

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 仕事柄(どんな仕事でもそうかもしれないが)、「お忙しいところ……」という言い回しをよく使う。お忙しいところお手数をおかけしたり、誠に恐れ入ったり、ありがとうございましたり、内訳は色々だ。なお、これも「ご多用の折」で代替可能である。

 「お忙しいところ……」はしかし、考えてみるに恣意的な表現である。相手が本当にお忙しいかどうかは、本人に聞いてみなければわからず、当方で勝手にそう思っているだけからだ。もちろん、一緒に仕事をしている相手に「僕は今とっても忙しいんでね〜」という人もなかなかいない(私は会ったことがない)。相手が実際にどうであるかはいったんおいといて、きっとあれこれやることがあるだろうなと察して書いておく予防線のようなものだ。

 見方を変えれば、その恣意性のわりにはそう押し付けがましさがなく、きちんとクッションとしての役割を果たしているケースが多いのが「お忙しいところ」の興味深いポイントかもしれない。

 そして、忙しさというものはあくまで人それぞれのものでもある。仕事の絶対値が同じでも本人のキャパシティや得手不得手で忙しさの値は変化しうる。こっちが「あの人忙しそうだなあ」と思っても、当人はへでもねーよ(CV: 藤井風)と思っているかもしれない。逆もまた然り。そういう面でも「お忙しいところ」に本質的な意味を見出そうとすること自体が野暮なのかもしれない。

 

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 「ご多用」からの連想で思い出したが、おトイレに行くことを「用を足す」と言ったりするけれどあれはなんでなんだろう。するものをすることを「用」と捉えるなら、それを済ませることはむしろ「用を減らす」というべきではないか。未だに納得のいっていない慣用句の一つである。

2024年1月 Books

 読んだらなるべく早めに感想をまとめてみる、を漸く実践しはじめた。やはりこちらのほうがかなりスムーズなうえにきちんと思考がまとまる気がする。今年はこのスタイルの継続を目標にします。

 

1ジグムント・バウマン 伊藤茂訳『自分とは違った人たちとどう向き合うか-難民問題から考える-』青土社

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 社会学者バウマンが最晩年に取り組んだ著作。ヨーロッパにおける中東などからの難民受け入れに関するさまざまな事象について、排外主義やナショナリズムポピュリズムなどの問題から検討している。

 バウマンは欧米諸国の状況を例に、難民に向けられる不信感や敵意について整理する。そのうえで、「相互不信から抜け出す道に立ち塞がる最初の障害物は対話の拒絶である。言い換えれば、無視や無関心から生じると同時に、それらをいっそう強める沈黙である(p.23)」と指摘している。重要なのは「対話/会話」であり、会話こそが相互の合意や互恵的な協力の近道であるとバウマンは語る。

 難民でなくとも、他国からやってきた人たちを見て、話が通じなくて怖いと思ったり、ときには「自分たちの仕事をとっていくのではないか」などと敵視してしまう現象は日本でも多く起こっている。私自身もそう思ったことがある。しかしたしかに、その不信感や敵意の底には「わざわざ彼らが日本にきた事情など知ったことではない」という「無関心」があるように思う。それを知ろうという態度をこちらが起こさないのであれば、壁は聳え立ったままなのかもしれない。世界の状況から自分自身の身辺を見直して、そんなことを考えた。

 

2ゲオルク・ジンメル 清水幾太郎訳『愛の断想・日々の断想』岩波書店岩波文庫

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 『貨幣の哲学』を著した社会学者・哲学者ジンメルの晩年の遺構を集めたもの。

 『愛の断想』は、基本的に異性愛を前提とした書かれ方をしている点に留意する必要があるものの、愛と性欲を区切り、それぞれを結構詳しめに考察していたりして興味深い。100年前に、既にこういう考え方を言葉にしていた人はいたんだなあ、という感じ。

 「愛を知る人においては、愛は、生殖という目的から完全に解放されている──しかも、それが決して抽象でなく、自然であるという点、それが決定的なことであり、生命の形而上学の底に達するものである。」(p.12)

 『日々の断想』のほうはテーマが幅広く、哲学のほか芸術、宗教などについて語られている。原稿の性質上、論拠などは示されていないものの、つい目を止めてしまうフレーズも多い。

 「一般に、青年の主張するところは正しくない。しかし、それを彼らが主張するということは正しい。」(p.107。正しくないなんて言い切ってしまって大丈夫? とも思うが、大事なことを言っている気がする)

 「一滴の水滴のために容器が溢れる時、流れ出すのは、この一滴より多くなる。」(p.124、もはや名言botの世界だが含蓄を感じてしまう。ジンメルなので……)

 

3原民喜原民喜全詩集』岩波書店岩波文庫

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 小説『夏の花』で広く知られる作家・原民喜。詩集は未読だった。

 『夏の花』とならび原爆被災を記録した作品である「原爆小景」は文庫にして12ページというボリュームでありながら、極めて強い印象を残す。悍しい核兵器の惨禍が片仮名と漢字によって綴られ、本詩集のなかでも異質なページに見える。しかしながら最後の「永遠のみどり」(「ヒロシマのデルタに 若葉うづまけ」で始まる有名な詩)だけは平仮名が使われている。真摯な祈りの言葉。

 一方、パーソナルな出来事や風景を題材にした詩も多い。例として、原は終戦の前年に妻を亡くしており、その経験を題材としているものがいくつか見られる。他にも、既にこの世にないものや祈りを主題とした作品が目をひく。うまく表現できているかわからないが、言うなれば死者と対話を試みるための、ある種のコミュニケーションツールとして作者は詩を書いていたのかも、とふと思った(などと考えていたら、若松英輔氏による解説中にヒントになりそうなことが書いてあった)。

 「まだ邂合したばかりなのに既に別離の悲歌をおもはねばならぬ私

 『時』が私に悲しみを刻みつけてしまつてゐるから」(p.61「讃歌」)

 

4.岡 真理『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』大和書房

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 現代アラブ文学の研究者である著者による、パレスチナの現状に関する2つの講演を書籍化した本。タイトルは『ガザとは何か』でありつつ、『パレスチナとは何か』、『イスラエルとは何か』を知ることができる本でもある。

 本書では2023年10月7日以降に「起こっている」こと、そしてそれ以前に「ずっと起こっていた」ことが史実をもとに解説される。史料やリファレンスは充実していつつ、文章自体はわかりやすく、まずは1冊通して読み切ることも難しくないはず。

 昨年末以降、パレスチナを取り巻く状況について自分なりに情報に触れてきたつもりではあったが、まだまだ知らないことばかりであったと実感した。しかしそのように落ち込んでいるよりも、著者がp.190で述べているように、学びを継続し、わからないことを調べるのをやめないことが大切なのだとも考える。

 パレスチナ問題について知ろうとする人はもちろんのこと、危機的状況で文学言語が果たす役割について考えている人がいれば、(特にp.144「言葉とヒューマニティ」は)必読と思う。

 一刻も早い停戦と、ガザ地区ヨルダン川西岸地区、そして世界のあらゆる地域で起こっている不当な権利侵害の停止を切に願います。

 

5カール・マルクス 長谷部文雄訳『賃労働と資本』岩波書店岩波文庫

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 マルクス、読むか……と思いはしつつ、『資本論』はいろいろな意味でハードルが高く感じていたところ、よいサイズ感の著作に出会った。「労賃」をテーマに、資本家と労働者の関係性や技術革新が労働者に与える(あるいは与えない)影響について論じられており、テーマは『資本論』と通じる。

 元は新聞連載で、最終的に労働者向けのパンフレットとしてまとめられたものだそうだが、普通に「難し……」と思った。内容自体は整理すればわかりやすいのかもしれないが、言い回しや専門用語がテクニカルに使われていて、若干勿体ぶった印象も受ける。しかしそれゆえにというべきか、数ページおきに出てくる断言調の要約はインパクトがある。

 「労働者階級にとって最も好都合な状態たるできるだけ急速な資本の増大でさえも、それがどんなに労働者の物質的生活を改善しようとも、彼の利害とブルジョア的利害すなわち資本家の利害との対立を止揚することはない。」(p.72)

 あくまで理論の本であり、本の内容が現実とそっくり連動しているわけではもちろんないだろう。とはいえお金の流れを考えるための道の作り手として、マルクスはやはり偉大だったのだと思う。

 

6.矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中央公論新社中公新書

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 ハンナ・アーレントは、学生時代に『人間の条件』にトライしようとしたものの途中で読み止めてしまった淡い思い出がある。きっかけは大学のフランクフルト学派の講義だった。

 アーレントの名前は大学卒業後もよく見かける。本や論文ばかりでなくSNSの投稿レベルでも頻出する哲学者だが、それゆえに彼女の理論/思想が無限定に濫用されているきらいがあるようにも思える(特に「凡庸な悪」)。しかし、それを批判できるほど自分に知識があるわけでもないので、少し勉強しなおしてみようと思った次第。

 本書はアーレントの生い立ちと著作を並行して解説しているので、『全体主義の起原(本書表記ママ)』『人間の条件』といった主著がどのような時代を、あるいは人間関係を背景にして記されたかがわかる。特にその時々の人間関係はかなり重要だと感じた次第(というのも、アーレントはその生涯において、ユダヤ人という出自から多くの地理的・心理的な移動を経験している)。

 アーレントユダヤ系というアイデンティティにどう向き合ってきたかについても丁寧に示されている。いきなり本人の著作に入る前に、さまざまな前提を一読するにはかなりよい本なのではないかと思う。

 

7.高木正幸『全学連全共闘講談社講談社現代新書

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 戦後すぐ〜1970年代ごろの文学(小説や現代詩)を読み解くにあたり、学生運動新左翼のムーヴメントを勉強しておきたいと思っていたところに出会った1冊。

 大学自治朝鮮戦争に関連する黎明期の学生運動から「全学連」の誕生、全共闘の時代への移行、その後の運動の荒廃期までを時系列で追っている。また、それぞれの活動のきっかけとなった歴史的事件や国の動き、学生グループの活動に対応する日本共産党の動きなども解説されており、読みやすかった。全体的に各時代にバランスよくウエイトを置きながら丁寧に解説されている本だと感じたが、学生運動で大きな存在感を発揮した東大と日大を比較して論じている部分があり、かなり興味深かった。

 新左翼の停滞の原因にもなった激しい内ゲバの記述は、読んでいてとにかく重い気分になってしまった。自分、ないし自分の所属する派閥が正しいと信じ込むことが容易に暴力と結びつき、生身の人間に向いてしまうことの恐ろしさ。しかし、そうした暴力は形を変えて現在も息をし続けているように思う。

 「全学連全共闘」というタイトルどおりの内容について俯瞰的に読める良著だと感じたが、今のところ品切れ重版未定。

 

8.嶋浩一郎 松井剛『欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング集英社集英社新書

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 マーケティング論の教授という「研究者」と、広告・PRの仕事を多く手がけてきた「実務家」による著作。

 筆者は、「加齢臭」「女子力」といった、もともと辞書には載っていなかったが社会的に広く知られるようになり、テレビや雑誌でも見聞きするようになることばを「社会記号」と位置づける(p.6)。そして、「社会記号」がどう発見され、広まり、さらに人々に求められるようになっていくのかなどを解説していく。

 本書はビジネス面に寄りすぎておらず、社会学や広告学の理論的な裏付けを交えてことばと人間の欲望(「欲しい」と思うこと−消費行動−マーケットの創出)とを論じていて、特に社会学を勉強していた身としては非常に面白かった。

 雑誌という一種のオールドメディアが社会記号を生み出すプロフェッショナルである、という部分も興味深い。「人間は自らの欲望をそう簡単に言語化できない」(p.58)という前提のもと、雑誌編集者は「人間が潜在的な欲望を言語化してくれるプレイヤーに感謝し、親近感を覚える」(p.62)ことを知っているという。そこで読者は雑誌のファンになり、新しいマーケットも生まれる。もう少しマーケティングのことを勉強してみようと思った。

 

9.永井宏『夏みかんの午後』信陽堂

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 アーティスト・永井宏氏の文筆作品は、散文集『サンライト』に触れて以来ときどき読んでいる。本作は、都会を離れて湘南に暮らしはじめた人々を描いた小説作品。

 小説として真新しいところがあるとか、あっと驚くどんでん返しがあるといった類の作品ではない。なんなら、登場人物の動きや女性の言葉遣いなどに関してはステレオタイプな部分もあり、少しムズムズしたぐらいである。「都会の喧騒を避け、海の近くで落ち着いて暮らす」というのも文字にすれば簡単だが、実際にはそうシンプルなことではないだろう(そうしようとして諦めた人も多くいるに違いない)。

 しかし、そうしたこと以上に、永井氏が実際に日々眺めていたであろう逗子〜葉山の風景や食・住の描写の魅力に惹かれるのは事実で、だから自分自身彼の作品を追ってきたというところもある。合間に挟まれる写真も、現地での生活への想像力をかき立ててくれる。

 よりよい生活を求めて(半)移住を決め、そこでの生活を綴る……という文章は、どうしてもそのことを「オススメ」するような形になりやすいと思う。しかし、この本にはそれがない。それが却って湘南の生活への憧憬を強めてやまない。

 

10.チョ・セヒ 斎藤真理子訳『こびとが打ち上げた小さなボール』河出書房新社河出文庫

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 韓国において長きにわたってベストセラーとなっている作品。大規模な都市開発をめぐるさまざまな出来事を労働者や市民、使用者(!)の視点から描いており、中心人物は数人固まってはいるものの、群像劇のような仕立てでもある。低賃金で肉体労働に従事する若者や、障害をもつ人物の声を通して経済や権力の不均衡を告発すると同時に、中流階級以上の人々(=本を読めるだけの教育と余暇をもった階層の人々、ともいえそうだ)も語りの目線におくことで、多くの読者を引き込んでいるのだろう。

 執筆された1970年は軍事独裁政権のさなかで、検閲による発禁のリスクを分散するために別々の雑誌に不定期で連載したという。それぞれの物語も、互いに有機的な連帯をキープしている一方、1話完結で読んでも違和感はない。さまざまな面で緻密に組み上げられた作品。

 作家は、本作が現在に至るまでリアリティを持って読まれている=格差や差別、弱者に対する暴力がなくなっていないことを「恥ずべきこと」とし、「この本がもう読まれない世の中が来ることを願う」とまで語ったらしい(p.442)。ロバート・キャパの「すべての戦場カメラマンの夢は失業することである」に通じる、(逆説的ではあるが)自作品を通じた未来への強い意志を感じる。

 

11.斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス

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 この2〜3年で少しずつ韓国文学を読んできて、ある程度それらの性格のようなものが見えてきたように感じていた。が、この本を読んでまだまだ気付いていなかったことが沢山あるなと再発見した。帯には「なぜこんなにも面白く、パワフルで魅力的なのか。その謎を解くキーは『戦争』にある」と記されている。ここでいう戦争とは、1950年から3年続いた朝鮮戦争であり、そこに繋がる第2次世界大戦以前の状況も含む。

 韓国文学の歴史は20世紀前半の戦争と、その後の軍事独裁政権〜民主化運動と連動しており、政治・経済の歴史を学ばずに文学史を追うことは難しい(そのため、文学を表題に掲げた本ではあるが社会の動きを勉強できる本でもある)。「芸術に政治を持ち込むことの是非」が議題に上がる国がある一方、芸術(文学)と政治が表裏となって離れない国が、海を挟んで隣にあったのだ、と改めて実感する。

 1月は上記チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』を並行して読んでいた。本作は韓国文学の最重要作品のひとつで、本書でも1章分とって解説されており、大きな助けになった。次はハン・ガン『少年がくる』を読みたいと思っている。

 

12幸田文『包む』講談社講談社文芸文庫

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 幸田文のエッセイは今まで読んだものどれも例外なく好きだが、これも例に漏れず好きな1冊だった。

 特に、作家が飼っていた猫のことを記した「小猫」「ふたつボン」がいい。飼い猫のことを書いたエッセイというのは古今東西多くあり、まあ文字どおり猫可愛がりの日々を描いたものが多いように思うが、幸田文のものは独特の空気感があって興味深い。可愛がっていたことは確かなのだろうが、どこか超然としたドライさのようなものがあって、「猫は猫、人は人」という感覚と、猫たちに自分の身上を投影する柔らかな眼差しとが絶妙なバランスで成り立っている。ちなみに2匹の黒猫を飼っていたときは、2匹ともに同じ「ボン」という名前をつけていたらしい。故の「ふたつボン」。ヤバイ。

 また改めて思うのは、幸田先生の文章は「古さ」はあるのだが「古臭さ」がないということ。本書は底本が出たのは1956年だし、「東京駅はオフィス街だから休日は人が少ない」なんていう記述もあったりする(p.119)。今、東京駅が空いている日なんてないだろう。しかし、妙なもったいぶりがなく、かといって無機質でもない文体はごく最近書かれたもののようにも思える。

2024年1月 Records & Live

 今年もできる範囲で、聴いた新譜などなどを記録しておこうと思う。一部海外の作品などは去年リリースのものもあります、1月なので……。

 

●Records

ORQUÍDEAS – Kali Uchis

・昨年もアルバムを出していたKali Uchis、けっこう短いスパンで新譜を出していた。前作でも聴けたメロディセンスやポップネスはそのままに、より踊れて、ジャンル的な幅も広くなっている印象がある。また、コロンビアにルーツがあるということで前作でもスペイン語を交えて作詞していたが、本作では全編でスペイン語がフィーチャーされている。

 ざっくり前半がダンス・ラテンで、だんだんとエレクトロニックやレゲトンに寄っていくような印象。前半では#2「Me Pongo Loca」と#4「Pensamientos Intrusivos」、後半では#11「Labios Mordidos」、#13「Heladito」が好きだった。

 

It's Getting Brighter – sleep well.

・今回はじめて音源を聴いたアメリカのインディーズバンドなのだけど、すごく好きだった。古いピアノと環境音のSEで始まるイントロはある面、手垢のついたモチーフではあるけれど、その後に続く楽曲とのマッチングがしっかり成立しているのでいいのかなと思う。

 本編は表題曲・#2「It’s Getting Brighter」から始まる。サックスやストリングスを入れたわりとゴージャスなサウンドに、シンプルな良メロが乗る感じが却って衒いがなくてよい。 全体的に柔らかで聴きやすい楽曲が多いなか、楽器隊の高いテクニックが垣間見える#4「Heavy Lifting」のような曲もあったりして飽きない。

 

Lahai – Sampha

・昨年のアルバムだが、今年聴いたので入れてしまう。イギリスのシンガー、トラックメイカーで、多くのビッグネームとも親交がある。恥ずかしながら、私自身はきちんと聴くのは今作が初めて。

 全体的にピアノが多くフィーチャーされたアコースティックなトラックと、ドラムンベース風のキリッとしたリズムが絡む音像が面白い。スネアがとにかくドライでハイピッチなイメージを受けたが、リズム自体は表情に富んでおり、ついつい聴き入ってしまう。

 #4「Suspended」では特徴的なファルセットが存分に聴けつつ、メロやコードはトランシーで、個人的には非常に好みな1曲だった。

 

EKKSTACY – EKKSTACY

・シャッター速度おそめで撮った、煙草を片手にボブヘアをなびかせる女性のジャケットを見て正直最初は身構えた。チャラめのサブカルボーイズ&ガールズが好きそうな感じを受けてしまったのである。

 実際に聴いてみるとジャケットから受けた印象とは少し異なる、ストレートなギターロックのサウンドが耳に飛び込んできた。結論から言うとどの曲もかなり好きだった。

 The Cureあたりの80年代ロックに影響を受けているらしいのだけれど、#3「i guess we made it this far」などを聴くとなるほど、という感じがある。ゴシック、サイケあたりにも通じるものがありそう(アーティスト名もEKKSTACYだし。XTCも当然聴いていそう)。

 

らんど – ZAZEN BOYS

ZAZEN BOYSは、昨年のSHIN-ONSAIでライヴを観た。その際にTHIS IS 向井秀徳が「次のアルバムはもう全部録っております」と言っていたのだが、意外に早く出た。

 先のLIVEで鬼気迫る演奏を聴き、音源化を楽しみにしていた#2「バラクーダ」、#4「チャイコフスキーでよろしく」などは、レコーディングならではのギュッと締まった音像で聴くとまた違った風景が味わえてよい。

 祭囃子のようなリズムに生々しいリリックが乗る#10「永遠少女」は本作のなかでも必然的に重要なナンバーになっている(向井氏曰く「話題になるとは思っていた」ものの、作品自体は2022年2月以前に作られたものだそうだ)。居住いを正して聴きたい1曲。

 

awake&build – yama

・yamaはなんだかんだで3年ぐらい追っているのだが、アルバムとしては過去一番好きかもしれない。

 なんとなく歌い手出身のシンガーは打ち込みサウンド多めな印象を持っているのだが、yamaはメジャー以降、けっこうバンドサウンドにこだわっているっぽいのが興味深い。本作もジャンル的には幅広いものの、全体的に生ピアノorギターを前に出している感じがある。

 フェイバリットトラックは#6「灰炎」。お手本のようなロキノンサウンドで、落ちサビの四つ打ちなんかはもはや2010年代感すらあるが、今敢えてこの音像を出すその心やいかに。1曲前の#5「slash」も好き(「水星の魔女」は観ていないけど…)。

 

HAPPY – group_inou

group_inouとの出会いは確かラジオだった。パスピエがMCを務めていたころのKINGS PLACEでナリハネ氏が「eye」を流しており、軽い衝撃を受けた。MVを見てさらにしっかり目の衝撃を受けた。

 私がgroup_inouを知るのとほぼ同時に活動を休止してしまったのを惜しく思っていたところ、ここへ来て新しい音源を聴けるのを嬉しく思っている。#1「ON」、ミッドテンポの心地よいリズムの中に先述の「eye」のメロディラインが見え隠れするのが面白い。敢えてのセルフオマージュか。#3「HAPPENING」のピコピコシンセとミニマルなリズムの絡み合いも楽しい。リリックスは相変わらずわかるようでわからない。なんだ、「夜中に里芋出てくるような 14時以降」って…。

 

The world is finally quiet – Ólafur Arnald

アイスランドの作曲家で、名前は「オウラヴィル・アルトナルツ」と読むらしい。生楽器を中心に据えたアンビエント系の音楽性。

 フィーチャリングにピアニストのアリス=紗良・オットがいて、お、となった。この人の名前は聞いたことがあった。確か普通にクラシックを弾く人ではなかったか。彼女がピアノを弾く#2「Reminiscence」を聴いてみるとピアノはまあ地味で、ストリングスの方が余程前に出ている。なかなか贅沢な人選だなあと少し思う。

 他にも教会音楽風の作品やヴォーカルが入っているものもあり、元々クラシックを聴いていた耳にはかなり馴染みがよかった。と思っていたら、本人はハードコア系のドラマーだったことを知ってたまげている。

 

Sol María – Eladio Carrión

・Kali Uchisに続いて2枚目のスペイン語圏アルバム(たまたま)。こちらはプエルトリコアメリカ人のラッパー。

 #5「Sigo Enamorau’」などレゲエ風の楽曲が印象的だったので少し調べてみると、どうやら「レゲトン」というジャンルがあるらしい。初めて知った。パナマを起源とするジャンルで、レゲエをベースとしつつヒップホップの影響のもとで再解釈され、プエルトリコのミュージシャンによってダンスホールレゲエとしてブラッシュアップされたものだそう。中米の音楽も奥が深い。

 Eladioはラッパーということでヒップホップ色が強めだが、楽曲の奥にさまざまなルーツやリスペクトが見える感じは興味深い。

 

Pick-Up Full Of Pink Carnations – The Vaccines

・特にキャリアの長いバンドは、どんどん音楽性を変えてリスナーをビビらせていく系と、一貫した音楽性の元でやっていく系とがいると思うが、The Vaccinesは間違いなく後者だと思う。

 歪みというよりもはや音割れのようなギター、真っ直ぐなエイトを刻むドラムス、延々とルートを弾き続けるベース……。それでも古臭さを感じさせないのはメロディの良さとサウンドプロダクションの功績だろうか。

 #2「Heartbreak Kid」、#4「Discount De Kooning(Last One Standing)」あたりの「ヴァクシーンズです」みたいな曲も好きだし、#6「Sunkissed」のようなミッドテンポの曲もいい。なんとなくフジロックよりサマソニで聴きたい。

 

●Live

1月は特にライヴ観覧せず。去年めちゃめちゃ行っていたので落差が結構ある。一方で出演は2回。久しぶりに人前でベースを弾きました。

2023 . Books(小説)    

 今年は、ジャンルとしては小説をいちばん多く読んだのではないかと思う。じつはわりと最近まで、自分にとって小説は意識して読む(=「これはフィクションだ」と思って読む)ものだったのだが、ここのところは物語に触れるということが生活の流れに組み込まれつつある。ごく自然に。

 特にそうしようと意識したわけではないのだが、振り返ってみると「失うこと」「離れること」を主題とした作品をよく読んでいた。2023年、個人的には大きな挫折や喪失は経験していないが、世界に目を向ければ大きな喪失や別離、あるいは逸脱がいくつもあった。今まさにあり続けてもいる。そのようなことも、今年の読書傾向に影響したように思う。

 例えば「失うこと」であれば、そこへの向き合いかたは「受け入れる」「悲しむ」「取り返す」など、色々である。今年読んだ諸作品でも、登場人物たちは「喪失」に対してさまざまな対応をみせる。そこから得られる印象や学びは、決して「所詮は物語」といって軽く流すことができないものだ。小説という形式の力を再確認する1年でもあった。

 

立原正秋『冬の旅』新潮文庫

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 今年読んだ本、ひいてはここ数年で読んだ本の中でもトップ10に入るぐらいには印象に残った。

 義兄・修一郎を刺して少年院に送られた少年・行助を支点として、さまざまな人物の行動、思想が交錯する群像劇のような作品で、かつ600ページ超の長編ながら煩雑さもなく一気に読み進めてしまった(この読みやすさについては、もともと新聞連載の作品であることも大きいと思う)。

 非行とは、罰とはなんなのかといったわりと根源的で手ごわいテーマをバックに据えつつ、どこか温かな手触りのある日常描写が要所要所に入っていたりもして、そのバランス感も絶妙。

 基本的には傲慢で卑劣な人物として描かれる修一郎に対する作者の目線が、単に厳しいだけのものではないことも興味深いポイントだった。恐らく行助とともに修一郎にも作者自身の人格が投影されているのだろう、と解説には示唆されている(p.635)。

 連載当時から根強いファンがいた作品らしい。とある魅力的な登場人物が作中で死亡した際、その人物をえらく気に入っていた居酒屋の主人が「なんであんなにいいやつを殺すんだ」と立腹して立原を出禁にしたというエピソードが面白かった(p.637)。

 

安部公房『けものたちは故郷をめざす』岩波文庫

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 終戦直後、満州から日本をめざす男・久木久三の話。安部公房の作品のなかでは比較的初期の作品で、「解説」のキーワードを借りるならば、登場人物の哲学的な思弁や物語を離れた散文などはみられない。『砂の女』のざらついた不気味さや『人間そっくり』のブラックユーモアも、まだない。公房作品のなかでは(結果論ではあるが)異色な部類に入るかもしれない。

 厳寒の大陸における壮絶な旅路のシーンが大半を占めるが、一度読み始めるとなかなか止まらないのは圧倒的な筆力のなせる技だろう。公房本人は本作を「地味」と評していたらしいが、いや、そんなことはないだろう……とつい思ってしまう。物語の終盤に至るまで、久三の前に立ちはだかるのは祖国(=日本)との絶望的なまでの距離。その距離は物理的なものでもあり、精神的なものでもある。戦後という時代において、教科書には書かれないが確かに存在した、幾つもの自我の危機を思う。

 

太宰治『惜別』新潮文庫

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 新潮文庫版は表題作と「右大臣実朝」の2作が収載されている。

 源実朝、というと昔受けた日本史の授業でちょろっと名前が出てきただけの存在である。しかもその扱いと言えば「文学や芸術にウツツを抜かしていて武芸に疎く、勘違いで殺された残念な人」とか、そんなだったような記憶がある(しかし今考えれば、それの何が悪いのか、とも思う)。多少前提知識がないと難しいとは思うが、歴史小説としてはけっこう親切な気がする。ひとつの芸術観を学ぶ体験として非常に面白かった。

「惜別」は魯迅と、その同級生の日本人医学生の話。戦時中に国から依頼を受けて書いた作品ということで、他の太宰作品とはかなり毛色が違う(世に出たのは戦後すぐ)。執筆経緯や内容についてはやはり賛否が分かれているようで、それもわかる。が、当時の文学者が置かれた状況下を考えると、最大限太宰個人の思想を表現した作品にはなっているのじゃないか、と思う。魯迅「藤野先生」も同時に読むと解像度が上がる。

 

山川方夫 日下三蔵編『箱の中のあなた』ちくま文庫

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 山川方夫は短編集や戯曲の台本は読んだことがあるものの、ショートショートは未読だった。というか、「ショートショートの名手」と言われていることすら浅学にして知らなかった(山川作品って結構最近まで絶版・品切ればかりだった気がするのだが、最近になってリバイバルが来ているんだろうか。このちくま文庫版も昨年末に出たばかりのものだ)。ショートショートというだけあってサクサク読めて、シンプルに面白い本だった。サキの短編のようなドロッとしたエグ味のある読後感のものも良いし、淡いペーソスが彩る滋味深い作品もある。

 巻末には星新一都筑道夫との対談記事が載っているのだがこれがまた面白い(3人の対談のはずなのだが、進行役の編集者がまあよく喋る。しかしこの編集者が知識ある人物のようで、勉強になる)。山川はショートショートを2つに分け、それぞれ「風俗コント」と「『奇妙な味』系列」と表現している。そして、後者の方をより面白いと感じるのだそうだ。

 また、この文庫版の表紙イラストも個人的にはかなり好み。

 

川上未映子『黄色い家』中央公論新社

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 小説のもつ力、ひいては「自分にとって小説という形式が必要な理由」を強く感じる作品というものにときどき出会うが、本作がそうだった。

 「金」に引きずられて狂っていく人を描いた作品、と一言でいえばそうだが、人物の設定や状況、背景を含め、情報量はかなり多い。

 とりわけ人物の設定が丁寧だ、と思う(昨年『夏物語』を読んだが、その際も同様の感想を抱いた)。今作の登場人物は社会的、経済的な困難を抱えた(もしくは抱えた経験のある)女性が多く、私が普段ボンヤリと生活しているだけでは想像することすらしないであろう世界が描かれる(私は男性で大卒で、正規雇用だ)。そうした世界があるということを意識することができる、というそれだけでも私はこの小説に出会った意味があると思う。

 その場面の明るさや温度感までもが感じられるような情景描写も好きだ。

「冷たい風が私と蘭のあいだをひゅうっと駆けぬけていった。じゃあまた、という感じでわたしは笑い、蘭も、腕を組んで前屈みにした全身を、手をふるみたいに揺らしてみせた(p.109)」

 

ブレイディみかこ『RESPECT』筑摩書房

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 ブレイディみかこさんは『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』などのエッセイや論考でよく名前を見かけることがあり、実際にそれらの数冊を読んだことがあった。小説作品を読んだのは今回が初めて。

 「ジェントリフィケーション」という言葉が日本でもリアリティをもつようになってしばらく経つが、この小説はイギリスでのジェントリフィケーションとそれに抗する市民の姿を描いている。ちなみに実話がベース。

 主題は上記のとおりながら、合間合間に挟まれる小シーンや登場人物の属性などに広範なトピックが織り込まれており、情報量は多い。多様な課題を内包したまま、経済的な困難を抱える人やマイノリティを飲み込んでいく社会の姿が明確に描かれている。

 最終的に前向きな終わり方ではあるものの、ジェントリフィケーションの抱える問題の根深さや(日本を含む)世界がこれから直面する壁について読み手にしっかり認識させるつくりになっていて、月並みな言い方になるがとても勉強になる小説だった。

 あとNAKAKI PANTZさんの装画がめちゃくちゃいい。

 

高橋和巳『悲の器』河出文庫

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 某名門国立大学の法学部長という地位にある人物・正木典膳があるスキャンダルの当事者となり、転落していくという筋書き。登場人物の個人的なトラブルから始まる物語でありつつ、戦後の権威ある知識人を取り巻く他者との関係性、ひいては世間体や大文字の社会といった他者的相対とのstruggleが描かれていく。

 かなり硬い手触りの文体でありながら、つい先へ先へと読み進めてしまう推進力がある。台詞回しによる人物の機微の動かし方が巧妙である。素人目には、法学の知識・考え方が多少なり要求されるような箇所もあるが、高橋は法学専攻ではなかったというのもすごい。これが作家のデビュー作であるというのもさらに驚きだった(担当編集者はかの坂本龍一の実父、坂本一亀だったそう)。

 正木典膳のジェンダー観・家族観については流石に時代を感じざるを得ず、作家自身はその辺りについてどのような考え方でいたのかが気になるところだったが、それについては巻末エッセイ(松本侑子)に考察が載っている。こういうのがきちんと載っているのは文庫版のありがたみである。

 

田畑修一郎 山本善行撰『石ころ路』灯光舎

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 灯光舎「本のともしび」シリーズより。この作家の作品を読むのは初めてである。主に昭和初期に作品を発表した人で、当時の文壇で存在感を増していたモダニズムプロレタリア文学とは一定の距離を保っていたらしい。

「伸夫が生れたそのちっぽけな街は、土地の人間だった間中とてもつまらない嫌な所だったが、町を出てしまって十年近くになり、殆ど緣故もなくなった今では、記憶の中でしだいに特色がある町のように思われて來たし、美しいと云うのはあたらないが、少くともそれに近い或る風趣を持っていることに氣づくようになった」(p.81、「あの路この路」)

 この部分が、最近自分が出生地に対して思っていることと重なって、志村正彦風にいえば「なぜか無駄に胸が騒い」だ。小説を読んでいて自分の心情と重なる部分に出会ったときに感じる種の高揚は何にも替えがたい。

 「本のともしび」シリーズにある程度共通して、喪失や死をテーマにした作品が収められているが、暗く重い雰囲気というよりは穏やかな寂しさを強調した文調である。そこもこだわって撰出しているのだろう。

 

村上春樹螢・納屋を焼く・その他の短編新潮文庫

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 村上春樹再読の流れ、継続中。この作品は、昨年の末にアジカンのゴッチさんがブログ「ドサクサ日記」で取り上げており、そういえばまだ読んでいなかったなと思って買ったのだった。そして8月まで積んでいたということになる。

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 「ドサクサ日記」では、坂本龍一の最後のコンサートについて語られており、連想される文学作品として『螢』とカズオ・イシグロの『Never Let Me Go』が言及されていた。キーワードとしては、「喪失の痛み」「死との距離」といったあたりになるだろうか。『螢』の作中に「死は生の対極存在ではない。死は既に僕の中にあるのだ(p.31)」という一節があるが、これは「作品」と呼ばれるものを作ることを生業とする人々、つまり芸術家にとって多少なりとも意識されることなのではないだろうか(作品は作者自身の生・死を超越して存在しうるので)。

 個人的には、村上春樹作品は長編よりも短編が印象に残ることが多い。本作に収められた他の作品では、『踊る小人』が好きだった。

 「僕の手や足や首は、僕の思いとは無関係に、奔放にダンス・フロアの上をまった。そんな踊りに身をまかせながら僕は星の運行や潮の流れや風の動きをはっきりと聞きとることができた(p.119)」

 そういえば、最近はダンス論の本を探している。

 

山本善行撰『上林暁 傑作小説集 孤独先生』夏葉社

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 久しぶりに本の「ジャケ買い」をした。装丁・櫻井ひさし、絵・阿部海太。濃い青の色調の絵を全面にあしらい、表題等は銀の箔押し。ハードカバーながら新書版サイズという珍しい判型も面白い。とにかくビジュアルからして独特な雰囲気を纏った1冊で、手にとって眺めているだけでも気づけば5分ぐらい経つ。タイトルが『孤独先生』というのもこれ以上ないマッチングだろう。

 上林暁も今回が初読の作家。高知を故郷とする小説家で、特に私小説をメインジャンルとしたそう。すぐれた私小説を読むといつも感じることなのだが、一人の人が個人的な体験や思想を書き連ねたものが、どうしてこれほど面白く、印象に残るのだろうと思う。本作でも、『天草土産』や『淋しき足跡』で描かれる野や山、海の情景、また登場人物の顔つきまでもが生き生きと描写されていて、それだけならそういう書き方が上手いんだというだけの話なのだが、なかなかどうしてそれらが自分自身の記憶のどこかとリンクして強い印象を残す。

 自分の記憶や体験とのリンクという意味ではちょっと弱いのだが、単純に話として好きなのは『二閑人交遊図』。瀧澤兵五と小早川保という2人の閑人(実際には閑人というほとヒマではないと冒頭に但し書きされているが)が、酒を飲んだり釣りをしたりする話である。なんということもない話のはずなのだが、いい年の大人ふたりがまったり遊んでいる情景はどこかほっとする。

 

●ガルシア=マルケス 鼓直 木村榮一訳『エレンディラサンリオ文庫

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百年の孤独』のガルシア=マルケスの短編集。今はなき文庫レーベル・サンリオ文庫からの刊行。

 「大きな翼のある、ひどく年取った男」と邦題のもとになっている「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の2篇が特に好き(しかし後者、ものすごいタイトルだな)。前者は、尊崇すべき存在であるところの天使がみすぼらしい老人として描かれている点にまず意外性を感じた。

 収録されているどの作品も、なんらか幻想的な空気を漂わせている。一方で、登場する人々の(よく言えば)人間らしさ、(悪く言えば)どうしようもなさには妙にリアルな手触りがあり、これらの作品が単なるファンタジーでないことを思い出させてくれる。

 文章の言い回しや場面展開にはコミカルな部分もあるものの、やはり一貫して扱われているテーマは人間が抱く孤独、あるいは孤独にまつわる一側面であると思う。読後感は決してスッキリしたものではなく、一抹の寂しさも覚える。しかしそれでもこういった作品に触れたくなる瞬間がたしかにある。

 

●ルイ・ズィンク 黒澤直俊編『ポルトガル短編小説傑作選』現代企画室

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 去年より、ポルトガル語圏における「サウダーデ/サウダージ」という概念について勉強したくて、ポルトガルやブラジルの文学をいろいろ探している。

 編者ルイ・ズィンク氏は本作序文において「われわれは『遅れた国』だった。二十世紀のもっとも長い独裁政権が支配していた。われわれは流動的な民でもある−−柔軟でざっくばらんで好奇心が強い。あなたのようにだ、日本の読者よ」と語る。ポルトガルの歴史や文化についてもっと勉強してから、また読み直したい。

 イネス・ペドローザ「美容師」とドゥルセ・マリア・カルドーゾ「図書室」の2篇が初読時のフェイバリット。前者は近現代のポルトガル(ひいてはヨーロッパ)における女性の生について、後者はポルトガルが参戦した戦争と、同時代の教育について、学びの扉を開いてくれた。

 

カズオ・イシグロ 飛田茂雄訳『浮世の画家』中公文庫

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 今年もカズオ・イシグロを。『浮世の画家』は現在、早川書房から文庫が出ているが、今回読んだのは経堂のゆうらん古書店で入手した中公文庫版である。

 軍国主義時代に戦意高揚のための絵画を描き、名声を得た画家・小野。戦後の経済的・文化的な転換期のなかで、戦時中の自身の過ちを受け入れながらも自身のアイデンティティの置き場所に悩む。

 イシグロ作品の特徴である一人称視点と、それに伴う「信頼すべからざる語り手」化がこの作品でも効果的に発言している。(これもまたイシグロ作品の特徴である)ある種淡々とした、一見冷静に見える語り口はしかし、語り手の感情と連動して揺れ動いており、そこに人間らしさが担保されている。

 時勢に身を任せ、多くの人間関係を切り貼りしながら耳目を集めてきた芸術家をしかし、俗物と断罪できるだけの度胸も私にはない。自身が同じだけの権威と技術を手にしていたとき、どう行動するだろうか? きっと小野と同じように悩むのではないか。

 しかし、改めてイシグロが英語で執筆する作家であることをつい忘れるぐらいには、文体と翻訳が(日本を舞台とした小説として)自然だった。

 

●アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ 酒寄進一『雨に打たれて』書肆侃侃房

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 吉祥寺・百年で見かけてからずっと気になっていた1冊。筆者は年代的・ジャンル的にはロストジェネレーションに分類されるそうだが、非英語圏、かつ男性でない書き手によるロスジェネ作品は今回初めて読んだ。筆者はスイス人の写真家だ。

 作品の主な舞台は1930年代の中東諸国で、当時のこの地を取り巻くヨーロッパ大国とその植民地の関係性を勉強しながら読んだほうが、設定の妥当性などがよりよくわかる(逆に、勉強しないとちょっと難しくて置いていかれる)。外部からの訪問者として客観的に中東での生活を描写しながらも、旧来的なヨーロッパ型価値観に対する批判的ステートメントとしての性格も持ち併せた読み応えのある文章だった。

 フランス軍所属のアルジェリア人将校と恋人のヴァランティーヌの関係を描いた「別れ」、ジャーナリストのカトリーン・ハルトマン男爵夫人の肖像「女ひとり」がフェイバリット。

 

アントニオ・タブッキ 須賀敦子訳『供述によるとペレイラは……』白水社

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 イタリア人作家・タブッキによる、WWII前夜のポルトガルが舞台の小説を須賀敦子の名訳で読む。名著というほかない作品だと思う。

 (特に日本で)WWIIの勉強をしていてもポルトガルはなかなか目立って出てこないように思うが、そこにも確かにファシズムが暗い影を落としていた。南欧の明るい街並みと甘いレモネードに対比するような、忍び寄る言論弾圧の波が文章に独特の緊張感をもたらしている。

 困難な状況下での人間の思想・信条の揺れ動きを描いた作品ではあるけれども、一方で人間という存在への確かな信頼も垣間見える。

 

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー 野崎孝訳『フラニーとゾーイー新潮文庫

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 自分とごく親しい人が、サリンジャーについて次のように語っていた。「サリンジャーは10代の頃に読んでも、あまりピンと来なかった。20代でもう一度読んでみたら非常に面白く、スッと入り込んできた。30歳を過ぎてまた読んだら、やはりそんなにピンと来なかった」。もちろん1人の読み手の感想なのでそう真に受けるものでもないのだが、確かに高校生の頃にサリンジャーにトライしたときはそこまでハマらなかった。だから、20代も半ばを過ぎた今のうちに読んでみようという魂胆である。

 なるほど、明らかに昔読んだときよりも面白かった。自分自身が大学を出て、友達や家族という存在について一応真面目に考えて……という経験を経たことで、作中の「わかりみ」ポイントが増えたのだろう。そういう人生経験をそれなりに積んで、かつ登場人物と年齢が近い状態で読むとバチっとハマる作品なのかもしれない。

 文体に関しては、挙動や手癖を表す描写が細やかで、そこから人物の性格までも読み取れるようになっているあたり、ある意味で映像的な文章だな、と感じた。

 

●ハン・ガン 斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』河出文庫

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 「儚くも偉大な命の鎮魂と恢復への祈り」と、背表紙には記されている。

「祈る」ということは、力強さと所在のなさという、一見して相反する2つの要素を同時に備えた特異な行為であると個人的には考えている。そんな「祈り」を言葉で表現した創作物は、自分にとってある意味で特殊な光を放つ存在である。

『すべての、白いものたちの』は、歴史のタイムラインに記されない個別的な喪失(作者の姉の死)と、より大きな、歴史的意味を付与された喪失〜再生がクロスして語られる、小説のような散文詩のような作品である。ここまでで何となく察しがつくことだろうが、一言で説明するのは難しい。

 一段落目で「特殊な光」という掴み所のない表現を使ってしまったが、それではこの作品がどんな光を放っているかというと、小さな白い光である。タイトルに引っ張られているのではないかと思われるかもしれないが、この作品に収められた文章たちはたしかに白い。直感でそう思っている。この白さが一体なんなのか、何がそう感じさせるのか。その答えにもう少し近づくために、時を措いて再読するつもりである。

 

●キム・ジュンヒョク 波田野節子/吉原育子訳『楽器たちの図書館』CUON

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 音楽のことを本で読む、というのはいつになってもいくらか不思議な気持ちになるものである。とくに実際に楽器を弾いたり、日頃から音楽を聴いたりする身にとっては。

 韓国文学を何冊か読んできた印象として、書き手のポリティカルなスタンスや問題意識が明確であることが1つの特徴であると感じてきたが(それはもちろん大切なことだ)、本作はそのような雰囲気から少し離れ、生活のなかでシンプルに音楽を愛好し、じっくりと向き合う人物の姿が描かれている。実際に、この作品が生まれた背景には韓国の高度経済成長があるという(訳者あとがき p.338)。むろん8篇の作品がこの世界の抱える問題から目を逸らし、蔑ろにしているわけではないが(でなければ零細デザイン事務所の社長が家賃を滞納したりしないだろう)、それと並行して紡がれる音を表す言葉が強く印象に残る。

 「ボールから抜けだした音は上に伸び、木の枝のように幾枝にも分かれて、音の実をつけていた」

 「社長と僕とコ・シニ氏は、丸テーブルの中央に生えた、目に見えない木と、木の枝に実って下に落ちてくる音を静かに見守った」(「マニュアルジェネレーション」、p.77)

 

●キム・チョヨプ / カン・バンファ ユン・ジヨン訳『この世界からは出ていくけれど』早川書房

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 先日、久しぶりにスマホでゲームをした。「refind self」というゲームで、AIを実装したヒューマノイドである主人公を操作し、ゲーム内の行動からプレイヤーの潜在的な性格を診断するというもの。結構面白かった。本ゲームのキーパーソンとして、人間である「博士」という人物がいる。

 この短編集を読んでいるあいだ、なんとなく上記「refind self」の設定を思い返すなどしていた。意思を持った機械たちの革命の結果、滅亡しつつある都市を人間が訪れる「最後のライオニ」、遠い昔に起こった事故から数百年ぶりに目を覚ました「原型」人間・ジョアンと、進化を遂げた現代の人間であるダンヒの交流を描く「ブレスシャドー」……。いずれも、人間とそうでない者、あるいは多数派とそうなれない者との接近が物語の起点になっている(さらに共通する主題は、「この世界からは出ていくけれど」、つまり現状彼らがいる時間や空間からのエクソダスである)。

 AIが十分身近になっている今、こうした設定はフィクションから現実に近づいてきつつある。そういった意味で、この短編集もあくまでSFというジャンルではありつつも、こうしたエピソードがいつかどこかで起こりうるのではないか? という不思議な距離感を感じさせてくれる。

 こちらの装画はカシワイさん。とても好きな絵を描かれる方。

 

●ハン・ガン 斎藤真理子訳『回復する人間』白水社

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 「痛みがあってこそ回復がある」と帯に記されている。ということは、前向きで明るい物語が本作には収められているのかというと、そう言い切ることは難しい。本作に収録されている物語の主人公が経験する「痛み」には、肉親の死や、再起不能な重傷などきわめて重いものが含まれる。そこからどういった過程で「回復」していくのか、あるいは何をもって「回復」とするのか。それらの答えは物語によってさまざまである。

 足の火傷の治癒と、姉との死別からの心の整理を重ねて語られる表題作「回復する人間」、クィアの生と結婚制度の陥穽に、社会運動のトピックまで織り交ぜて描かれた「エウロパ」の2本が特に印象的だった。

 「これはいったいどこで『回復』しているんだ…?」というぐらい終わり方に救いがなく、そういう意味で印象に残った作品(「左手」)もあった。時期をおいてまた読んでみると感想が変わるかもしれない。

2023 Books(エッセイ・学術・ノンフィクション)

 この2年ほどは小説を読むことが増えたが、大学時代からしばらくはノンフィクションに触れることが多かった。専攻が社会学だったので、レポートや論文のための文献として学術書を読むことも結構あったと思う。エッセイももともと好きで、絵本作家や歌人のエッセイなどを(書き手の本業であるところの絵本や歌集以上に)よく読んでいた。

 エッセイは引き続き折に触れて読んでいるけれど、学術書を読むことは社会人になってすっかり減ったと思う。まとまった時間を作って腰を据えて読むのが、やっぱりスケジュール的にも体力的にも難しいところがある。それでもしっかり知りたい分野というのはときどき出てくるもので、そういうときにちくま学芸や岩波、講談社学術あたりの文庫は非常にありがたい存在だった。本当はハードカバーにももうちょっと触れたい。

 

藤本和子イリノイ遠景近景』ちくま文庫

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 米文学の翻訳家・藤本和子による「住処」を主題としたエッセイ集。同じく翻訳者である岸本佐知子さんの解説には「藤本さんの『聞く人』としての本領はここでもいかんなく発揮され……」とある。

 魅力ある文章を書く人とはすぐれた書き手であると同時に(あるいは以前に)すぐれた聞き手である、というのは確かだと思う。さらにいえば藤本さんの場合、聞く力もさることながら、話し手の居る場所に行き、その空気や感覚を知ろうとする力も非常に長けているのではないかと思う。「居る力」とでも言えばいいだろうか。聞いたことを真摯に受けとめ、過剰に褒めあげず(もちろん腐しもせず)丁寧に書き起こすこと。言葉にすればシンプルにできそうなものだが、なかなか簡単にできることではない。

 『葬儀館そしてアイダ/イザベル』、『ベルリンあるいは悪い夢』の2篇は特に深い感銘を受けた。

 

●ミシェル・ザウナー 雨海弘美『Hマートで泣きながら』集英社

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 去年の秋口、大森のあんず文庫さんに本を買いに行ったら「ミシェル・ザウナーの翻訳が出るそうだ」と教えていただき、ずっと楽しみにしていた1冊。シンプルにいい本だった。

 文章が上手い。話と話のつなぎ方、形容詞の使い方。奇を衒うでもなく平坦に過ぎるでもなく、それらのバランスのちょうどいいところをついている。

 母去りし後、ミシェルが動画を見ながらキムチをつくる場面がとても印象的だ。母と彼女をつなぐ料理を一から作り上げていく営為は、大きな喪失と向き合うために必要なことでもあったのだろう。

「キムチの嫌いな人に恋しちゃだめよ。キムチのにおいは毛穴から入りこみ、あなたの体に染みついて離れないんだから(pp.279-280)」

 

青弓社編集部編『『明るい部屋』の秘密』青弓社

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 読みやすいんだか難解なんだかよくわからない写真論の「名著」、ロラン・バルトの『明るい部屋』を何人かの研究者が各自の視点で読み解いた小論集。いろいろな読み方があるんだな……というのがざっくりとした正直な感想。

 1回原作を読んでわかった気になっていた部分がちょっと違ったり、うろ覚えになっていた概念(「ストゥディウム」と「プンクトゥム」)を復習できるといった点においてはシンプルに役に立った。

 全体を通しては、松本健太郎氏による「言語と写真」(pp212-232)が面白かった。バルト記号学では、あらゆる非言語的な記号体系においてもその存在において言語の介在を見出す「言語中心主義」が顕著だとしつつも、バルト自身が(言語の介在する)イメージに対する抵抗を表明しているのだった(pp.216-217、「形容詞を与えあう関係は、イメージの側、支配と死の側に属する」)。写真から得た印象を言葉を使わずに“感じる”というのは、たしかに難しい。

 

●マイケル・ポランニー 高橋勇夫『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫

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 言語の背後にあって言語化されない知、「暗黙知」についての論考。人文科学と自然科学をクロスオーバーする知性の持ち主によって書かれた高度な文章、という感があり、当然ながら一読しただけで理解しきることは難しいものの、自分の理解できる範囲内でもかなり面白いと思える箇所があった。

 松岡正剛氏の「千夜千冊」に同書の解説が載っており、これがかなり助けになった(https://1000ya.isis.ne.jp/1042.html)。私自身ちょっと勘違いしていたことなのだが、「暗黙知」とは例えば歴戦のラーメン職人がタイマーを見ずに完璧な硬さの面を茹で上げる、みたいないわゆる第六感的な知のことではなく、「科学的な発見や創造的な仕事の作用に出入りした知」を指すと松岡氏はまとめる。あくまで、言語的に説明できる部分との密接な相関はあると。特に面白いと感じたのは、「ある世代から次の世代への知識の伝達は、主として暗黙的なものである」という部分(p.103、詳細は省く)。いずれ再読したい本に追加。

 

Pippo編著『人間に生れてしまったけれど 新美南吉の詩を歩く』かもがわ出版

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 国語の教科書に載っている「ごんぎつね」の作者、新美南吉の足跡を作品とともに辿る1冊。特に詩人としての新美南吉にスポットを当てている。

 センチメンタルな印象を与える表題は南吉の「墓碑銘」という詩の引用。この本の主題と新美南吉という人物を表現するのに非常に重要なキーワードになっている。「墓碑銘」は、なぜか人間に生れてきてしまった鳥が、人間世界の過酷さに耐えられず自ら生の世界を離れてゆくさまが描かれた詩である。

「厳しい生に耐えかね、自らの命を絶ったこの鳥には、南吉自身が投影されている面はありますが、南吉との決定的な違いがあります。それは、南吉は自らの生を諦めなかった。けっして手放さなかった、ということです」(p.5「はじめに」)

 その生がいかなるものだったかは、本編にて紐解かれていく。

 収録されている南吉の詩を読んでいくと、自然の中での日々の営みや、小さな生物への真摯なまなざしが確認できる(「ごんぎつね」もそうだったろう)。

 

●島田潤一郎『電車のなかで本を読む』青春出版社

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 「わたしたちには、本が必要だ」。帯に記された一文にふかく頷く。「ひとり出版社」として本をつくる(そして売る)ことを生業とする筆者が、本を「読む」ことに向き合って綴ったエッセイ集。一編一編のエッセイには1冊の本が紐づけられており、それらを調べてみるのもおもしろい。

 この本の興味深いところは、単なる読書礼賛本に終始しないところである。いきなり「おわりに」からの引用になってしまうけれども、島田さんは本書について「すべての文章は本を読む習慣のない、高知の親戚に向けて書かれています」(p.194)「ほんとうに豊かなものは、言葉のない世界にあるのではないか、とも思います」(p.195)とも語っている。私自身は読書が好きだけれど、特に後の一文に関しては強い共感を覚える(最近は旅が好きだ)。

 折に触れてまた読みたいのは第3章「こどもと本」。私には子どもがいないが、ゆえに惹きこまれ、自分の知らない世界を見せてもらった気分になる。というか、これこそが読書の醍醐味なのではないか。

 

宮地尚子『傷を愛せるか増補新版』ちくま文庫

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 トラウマ研究やジェンダーセクシュアリティの研究に従事する筆者のエッセイ集。タイトルにあるように精神的な「傷」を受容するということについて語っている。

 印象的だったのはp.26、「水の中」。ダイビング中にマウスピースを離してしまった筆者が生死の境を彷徨った経験が書かれている。そのとき、生命維持装置を失った状態で水面に向かおうとしていたときに感じていたのは恐怖や死への不安ではなく、「喜び」あるいは「解放感」であったという(決して「死にたかったわけではない」という補足がある。いわゆる臨死体験の一環としてそういった感覚が生まれることがあるのだろう)。

 全編をとおして、虚飾のないストレートな文章であると感じた。それはときに、筆者自身の属性、すなわち「教授のうえに医者で、ハーバード大学に留学経験があって博士号ももっていて、本もいくつか出していて(中略)しかもオンナで……(p.76)」という側面がダイレクトに顔を出すものでもある。しかし、この本に於いてその文体は必要なものなのだろうと思う。

 

●季刊『銀花』編集部編『"手"をめぐる四百字』文化出版局

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 作家や写真家、芸人、噺家が、「手」というテーマに沿って400字の原稿を寄せるという企画。実際に400字詰めの原稿用紙に自筆したものをスキャンして収録するという面白い仕立てになっている。個人的に人の手書きの文字を見ることが好きなので、じっくりと、しかし一気に読み通してしまった。

 字の形でいうと、柳美里さんの字と久世光彦さんの字が好きだった。スラリとした右肩上がりで、ときに字と字をつないで流れるように筆記に憧れる。

 言語、殊に文字というものは基本的に右利き用にできている。漢字の書き順や英字の筆記体は、右手で書いたときに合理的に、美しく書けるようにうまく設計されている。自分は左利きなので、なんとなく無骨な、ごろんとした文字を書いてしまう。今となってはそれも愛せるようにはなったが。

 この本の筆者のなかにどのくらい左利きの方がいるかはわからないが、まあ右手で書かれた方がほとんどだろう。右手で書き、かつ言葉を生業としてきた人々の、長年の経験を湛えた文字というのは届こうにも届き難い魅力を感じてしまう。

 

●ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳『生物から見た世界』岩波文庫

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 大好きな漫画である『思えば遠くにオブスクラ』(靴下ぬぎ子、秋田書店)にも登場する1冊。小さな虫や鳥だとかが、どう世界を「見ている」のか。「環世界」というキーワードを使って説明してくれる。

 この「環世界」は同一の生物種の間でも異なりうる。生活してきた文化や風土が違う人間同士でも、見えている風景がまるで異なるということがあり得るのだ(本書にも、実際そういうシーンを説明している箇所がある)。当たり前といえば当たり前のことだが、改めて認識。

 

モーリス・ブランショ 安原伸一朗訳『問われる知識人』月曜社

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 「顔のない作家」ブランショによる知識人論。1984年に刊行された文章で、もともと対外的な発表を意図することなく書かれたものであるそう。

 大きく「知識人とは何か」、「知識人とはどうあるべきか」という問いに対して考察する文章となっている。具体的には反ユダヤ主義に発端するドレフュス事件第二次世界大戦中のファシズムをテーマにとり、当時の「知識人」(ヴァレリーハイデガーなど)がそれらにどう呼応したかを批判的に検討したもの。

 繰り返されうる巨大な暴力に対して知識人がどのようにあることができるか。恐らくp.57-59にある文章が、ブランショからのひとつの回答であるということになろう(書き起こすには長いので略)。

 訳者・安原伸一朗による解説『文学と政治の間で』がとても読みやすく、ブランショのテキストを読み解くのに必要な知識もかなり補完してくれているので、先にこちらを読んでから本文にトライしてもいいかもしれない。次回読む際にはそうしようと思う。

 興味深いのは、ブランショ自身が文壇デビュー〜30歳代ごろまで極右のナショナリストであったという点。本作が刊行を前提としていなかったということを踏まえると、この文章はもともとブランショ自身の内省として書き始められたのではなかったか、という可能性が解説でも触れられている。

 

 ジェヨン 牧野美加訳『書籍修繕という仕事』原書房

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 タイトルに興味を惹かれて購入。本にまつわる仕事はいろいろ勉強してきたつもりだったが、「書籍修繕」という仕事についてはほとんど知らず、新鮮な思いで読み進めた1冊。

 この本における「修繕」という言葉には、単純にダメになったところを直す「修理」や、完全に元通りにする「修復」とはまた違った意味が込められている。ジェヨン書籍修繕では、依頼人の本への思い入れや、その本を今後どうしていきたいか(例:子どもに上げる等)をヒアリングし、それに基づいて修繕を進めていく。だから、購入時の姿に戻る本ばかりでなく、当初と違った姿で依頼人の手に戻っていくものも多い(本書の口絵部分にはジェヨン書籍修繕でこれまでに手がけられた「作品」が多く掲載されており、どれも素晴らしい)。綻びを直す「職人」であると同時に、人間の思想・希望を本の形で表現する「芸術家」でもあるといえそうだ。

 書籍修繕に使うブラシやハサミの解説など、技術的な部分の説明も充実しているのがありがたい。筆者はもともと美術大学でデザインの勉強をしており、米国の大学院で書籍修繕のテクニックを習得したのだそう。

 ジェヨン書籍修繕はソウルにあるが、日本にも同じような書籍修繕の工房があるかと調べてみたら、いくつかあるようだった。ただ、「書籍修繕」という言葉で検索するとこの本が一番最初に出てくるあたり、まだまだ知られていない部分が大きそうである。

 

●クロード・レヴィ・ストロース 今福龍太『サンパウロへのサウダージみすず書房

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 元になっているのは構造主義の旗手である文化人類学レヴィ=ストロースによる写真集で、日本語版はやはり文化人類学者である今福龍太氏の写真と論考を組み合わせたもの。

 レヴィ=ストロースによるオリジナル写真(1935〜1937年撮影)と今福氏による現代のサンパウロ(2000年撮影)の写真を比較して見ることができるという構成になっている。レヴィ=ストロース文化人類学者として、写真のもつ暴力性や搾取性について明確に批判している。特にヨーロッパ人が(旧)植民地や「未開地」で撮利、持ち帰ってくる写真については。しかし、サンパウロでは自らカメラをもってかなりの枚数を撮っているところや、後年の著作では結構こだわった加工までして写真を掲載しているところをみるに、写真そのものについては純粋に関心があっただろうことが窺える。

 そうしてまとめられた写真集に付けられたタイトルが「サウダージ」であることは尚のこと興味深い。

 

カール・ヤスパース 橋本文夫訳『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー

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 上記でブランショが提示した「巨大な暴力や危機に対して知識人に何ができるか」という問いへの、ひとつの別回答とも言えそうな一冊。そう言えばこの2冊は同じ書店で買ったのだった。なお、こちらのほうが『問われる知識人』よりもずっと早く、1946年には大学の講義として世に出ていた。

 ドイツの精神科医・哲学者であるヤスパースは、侵略者であった自国の立場から、「ドイツ国民」が第二次世界大戦での罪をどう捉え、受け入れるべきかを本書(講義)で提示する(ヤスパース自身はナチスを批判し、また妻がユダヤ人であったために政権から追われる立場にあった)。ハイレベルな内容ではあるが、「国民」や「市民」といった大きな主体が責任を負うべき状況やその方法について真摯に書かれており、現代まで通用する部分も多いと感じた。

 またここで留意すべきは(というか個人的に留意したのは)本書が所謂「一億総懺悔論」のような論法を推奨しているのでは決してないことだと思う。ヤスパース自身も「集団を有罪と断定するのは、月なみの無批判的な考え方が安易さと傲慢さとのためにともすればおちいりやすい誤謬である(p.64)」、つまりそもそも間違いであると説明している。本書で語られるのは「ドイツ人であれば全員悪である(、はいこの話終わり)」ということではなく、あくまで「ドイツ人一人ひとりがどのようにこの戦争と向き合うべきか」であると感じた。

 

茨木のり子『ハングルへの旅』朝日文庫

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 これまでは主に詩を中心とした作品に触れてきた茨木のり子だが、今回はじめてハングルをテーマとしたエッセイを読んだ。50歳でハングルの勉強を始めた詩人が、言語の習得と「となりの国」の文化について語っている。私も、韓国文学の影響で少しハングルに触れる機会を作ってみているが、とてもまだ読んだり書いたりできる気がせず、この詩人の意欲に対しては尊敬しかない。

 隣国の人はむやみやたらと「ありがとう」を言わない、という話が面白かった(p.140)。日本人は「ありがとう」と言いすぎるそうで、向こうではここぞというときにとっておくべき言葉らしい(もちろんちょっと古い本なので、今どうなっているかはわからない)。「ありがとう」も「감사합니다」も、それぞれ重要な感情を人に伝える言葉だという本質は、きっと共通しているだろう。謂わばそれらの「大切にされ方」に違いが出るというのが興味深かった(多くの人と共有するのか、できるだけ手元に留めておくのか)。そのほかにも日本と韓国の諺の比較や食文化の解説などもあり、飽きない。

 詩人の筆力と広範にわたる文化へのアンテナが冴え渡る1冊だった。

 

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま文庫

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 真木悠介、もとい見田宗介社会学専攻の学生だったころ、見田氏の著作は引用文献としていくつか触れたことがあったが、この本は読んだことがなかったのだった。

 ペルー生まれのアメリカの人類学者、カルロス・カスタネダの残した著作をリファレンスとした比較社会学の研究書で、カスタネダインディオの師ドン・ファンとの交流で得た言葉や経験を多く紹介している。

「啞者のことばをきく耳を周囲の人がもっているとき、啞者は啞者ではない。啞者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて啞者である。啞者とはひとつの関係性だ」(「序 「共同体」のかなたへ」p.29)

 存在の特性を他者との関係性のなかに見出す視点を感じる一文である。社会構築主義的、あるいは構造主義的な視点と言ってもよいかもしれない(少なくとも発想としては近いのではないか?)。改めて言うまでもないが、真木がまぎれもなく「社会学者」であることが感じられる一節だ。同時に、啞者だけがわかる言語、あるいは健者にはわからない言語の存在も示唆している。

 本書を座右の書として挙げる人は、結構多い。そういった人々と比べると、自分はまだまだ本書の魅力を十分に味わいきれていないという気もする。折に触れて読み返したい本となった。

2023 Books(詩歌)

 詩集といわれるジャンルの本を開いてみると、なるほど、「1ページに記されている文字数」は小説や学術書よりも少ない。なんとなく目に優しく、すぐに読み進めることができそうな気がしてくる。

 実際には、そんなこともない場合がほとんどである。少なくとも私という読み手にとってはページの余白は解釈の余白でもあり、詩においてテキストを読んでから考えを巡らす時間はときに学術書のそれよりも長くなる(基本的に“説明”の比重が少ない形式なので、これは妥当なのかもしれない)。

 一方、詩は人間が書くものなので、書いた人のバックグラウンドや時代的なバックグラウンドが重要な補助線になってくれる。読解のための時間を惜しまずに「勉強」することで、詩の解像度は高くなっていく。

 ……といったぐあいに、最近になってようやく自分なりの詩の読み方のメソッドができてきたような気がする。専門的に詩の勉強をした経験があるわけでもなく、好きな詩集や歌集はあるけれど、今ひとつ向き合い方がわかっていないという状態が長かったので、そこからは多少成長したかもしれない。

 

川崎賢子編『左川ちか詩集』岩波文庫

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 佐川ちかについては、福岡の出版社・書肆侃侃房から『左川ちか全集』が出ていてそちらを入手していたのだが、その分厚さゆえに一度途中で止めてしまっており、そうこうしているうちにこちらの文庫が出てしまったという経緯がある。取り急ぎ文庫の方を読むことにした。

 結果からいうと、文庫に収まっているだけでもかなりの読み応えがある。24年というあまりに短い生の間に残された言葉は、掴みどころがないようでもあり、かたや堅牢な手触りを持つようでもあり。

 編者の川崎賢子氏による解説には「若い娘に時代が課したジェンダー(性別役割)を越え、それを再編するような「わたし」世界の関係を描いた(pp.215-216)」とある。これは左川作品を読み解くうえで重要なポイントになっていそうである。

「青白い夕ぐれが窓をよぢのぼる。

 ランプが女の首のやうに空から吊り下がる。

 どす黒い空気が部屋を充たす──一枚の毛布を拡げてゐる。

 書物とインキと錆びたナイフは私から少しづつ生命を奪ひ去るやうに思はれる。(「錆びたナイフ」、p.16)」

 

吉増剛造『続・吉増剛造詩集』思潮社

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 何度読んでも、難解な詩人であると思う。きっと彼の作品により近づくにはもっと時間がかかるはずである。だが不思議と、諦めてしまおうという気にもならない。吉増剛造の作品にはそんな引力がある。

 彼の詩を読んでいると、読書というよりも風景を眺めるのに近い感覚に陥ることがある。それは太陽が髪を靡かせる風景であり、大河の氾濫する風景でもある。風景をみたとき、それを「理解しよう」とはあまり思わないように、彼の詩もまた、理解しようと意気込むことは正解ではないのかもしれない。それでも近づくことはできるだろうし、目に焼き付けることも多分できる。目の前のページに広がっている言葉の風景を、まずは真っすぐに受け止めることが求められているのかもしれない。

 彼の詩の風景を具体的なものにしているのは東京、特に武蔵野に関連する地名たちだろう。多摩川とか、恋ヶ窪とか。

 

●現代詩文庫24『大岡信詩集』思潮社

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「さわることは知ることか おとこよ。」

「さわることは存在を認めることか。」

(p.44)

 視覚への疑念と、触覚への憧憬を各所に感じる詩群。いまだ現代詩は自分にとって難解な部分も多く、(現代詩文庫であれば)後ろに付いている「詩論」「作品論・詩人論」を並行して読んでいる。大岡信とその同時代人についていえば、戦時中に少年期を過ごし、戦後に詩を書き始めた世代となる。その世代について端的に表現した一文が渡辺武信大岡信論」のなかにあるのでこちらもちょっと引用してみる。

「戦争も平和も自分のものでなかった彼らは、現在つまり空間の中にすべてを見たが、何一つ所有していなかった。(p.135)」

 個人的には、この部分で解像度がぐっと上がった。

 最近、詩を読むために大切な作業の1つに「歴史の勉強」があるのではないかとつくづく思っている。詩は、ときに報道やジャーナル以上に雄弁に時代性を語る言葉だと考えているので、その背景たる歴史の理解があるとないとでは、頭への入りやすさがまったく違ってくる。

 

●笹井宏之『てんとろり 笹井宏之第二歌集』書肆侃侃房

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 歌集、それも笹井宏之さんの歌集が読みたくなる瞬間というのが確かにある。『短歌のガチャポン』で、「自分にとって短歌の魅力は短い一節で強烈なインパクトをもらう体験をできること」などと言ったてまえ矛盾するようだけれど、笹井さんの作品はあくまで穏やかかつ、露出大きめで撮った写真のような眩しさを感じて好きである。ばっと腕を掴まれるようなインパクトでなく、繰り返し読むうちにじわじわと体に染み込んでくるような引力がある。

 「寂しさでつくられている本棚に人の死なない小説を置く(「しずく」p.21)」

 「満ちやすいもののすべてが一様に深紅に染まる 終わるのでしょう(「ゆらぎ」p.67)」

 「歴代の財務大臣がきらきらと星をかかえて都心を走る(「ななしがはら遊民」p.110)」

 

尾形亀之助西尾勝彦編『カステーラのような明るい夜』七月堂

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 コロナ禍となってから最初の1年が過ぎたあたり、精神的にかなり疲弊していたころに出会った、大切な思い入れのある本である。にもかかわらず、それから長いこと本棚に眠らせたままにしてあったため、ふとまた手にとってみた。

 宮澤賢治も寄稿した詩誌を主宰するなど、生前は積極的な文学活動を行なっていたようだが決して文学史のなかでも著名な存在ではなく、私自身この詩集によって初めてその名を知った人物である。

 一編一編が短く、素朴な語彙で書かれた詩が特徴的で、事実この1冊を読み切るのにはそう時間はかからない。しかし、読むのに要する時間が短いことは、その内容から得られるものの総量とは必ずしも比例しないということをこの本は教えてくれる。

 「窓を開けても雨は止むまい 部屋の中は内から窓を閉ざしている(p.54「雨」)」

 「空は見えなくなるまで高くなってしまえ(p.66「愚かなる秋」)」

 日本語の基礎的な語彙を使いつつもその並び順を巧妙に操作することで、独特の「引っかかり」やユニークな響きが作り出されており、面白い。

 

茨木のり子『女がひとり頬杖をついて』童話屋

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 かの名作絵本『葉っぱのフレディ』で知られる出版社・童話屋から刊行されている詩集の茨木のり子集。ページを繰ってみると、既に読んだことのある作品も多くあったが、そこは敬愛する詩人の作品ということでなんぼ読んでもいいですからね、しっかり再読した。

 2度、3度と繰り返して読んでみることでその面白さ・美しさが改めて感じられるということもままある。

「『先生 お元気ですか

 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました』

 他家の姉が色づいたとて知ったことか

 手紙を受けとった教授は

 柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか(『笑う能力』p.46)」

 手紙の時代だからこその笑い話だろう。現代でもタイプミスが思わぬ喜劇や悲劇を生んでいることが知られているが、「あね」と「かき」は打ち間違わない。笑い話のなかにも季節感や風景の「手触り」がありありと感じられるのがよい。

「沈黙が威圧ではなく

 春風のようにひとを包む

 そんな在りようの

 身に添うたひともあったのだ(p.67)」

 これもまた好きな一節。ほんらい、いずれも同じ無音状態であるはずの「沈黙」が、その場にいるのが誰かによって、どれほど違う意味をもつことか。「ひと」がひらがなに開いてあるのが、また独特の柔らかさを醸し出している。

 

●池上岑生編訳『フェルナンド・ペソア詩選 ポルトガルの海』彩流社

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 文学作品の特徴というのは色々あって、それは例えばある時代の状況を切り取った「時代の証人」としての特徴だったり、一方でどんな時代にも通用するある種の「真理」としての特徴だったりする。そういった意味で、ペソアの諸作品はまぎれもなく「20世紀初頭のポルトガル」という背景に裏付けられていながらも、なにか遠い国の物語であると割り切れもしない親近感がある。言い換えれば、広い意味での現代人のイシューを的確に描いているのだろう。

「自由になれぬまま

闇のなかを風が荒れ狂う

ぼくは思考から逃れられない

風が大気から逃れられないように

(p.28、『闇のなかを』)」

 ちなみにペソアは「アルベルト・カエイロ」「リカルド・レイス」「アルヴァロ・デ・カンポス」、そして本書には載っていないが「ベルナルド・ソアレス」という異名を使用していた。これらは決して「筆名」や「ペンネーム」ではなく、それぞれに別人格をもった他人という設定であったらしい。

 

長田弘『最後の詩集』みすず書房

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 長田弘氏の文章は主に評論、随筆で触れたことがほとんどで、詩はあまり読んだことがなかった。まとまった詩集を手に取ったのはこれが最初かもしれない。なのに『最後の詩集』。タイトルどおり、作者が他界する直前に自らの手で編纂した詩集とのこと。

 柔らかな印象を与える口語で、リズミカルに短い言葉を並べていく書き方が特徴的。一方、抽象的・普遍的な情景を描いているかと思えば、突発的に現れる固有名詞によって解像度がぐんと上がったりして、意外にスリリングでもある。

 一貫して自然への敬意が描かれているようにも見える。

 「人のつくった、建築だけだ、

 廃墟となるのは。

 自然に、廃墟はない。(p.17)」

 

 しかしながら、安易な人間批判に陥ることがないところも好きである。

 「悼むとは、死者の身近に在って、死者がいつまでも人間らしい存在であれとねがうことだった。(p.37)」

 

 そして言語、書物への愛。

 「昔ずっと昔ずっとずっと昔

 朝早く一人静かに起きて

 本をひらく人がいた頃

 その一人のために

 太陽はのぼってきて

 世界を明るくしたのだ

 茜さす昼までじっと(p.64)」

 いろいろな物事へのリスペクト、愛の集大成としてこの詩集は編まれたのかもしれない。

 

●鄭芝溶 吉川凪訳『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』CUON

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 鄭芝溶(チョン・ジヨン)という詩人のことは本作で初めて知った。主に1920年代〜1930年代に創作した詩人で、それまで漢語で書くことが文化人の条件とされていた状況下でハングルの詩を発表し、朝鮮現代詩の魁となった人。

「聞きなれない鳥の声がして

 清楚な銀時計で殴られたように

 心はあれこれの用事に引き裂かれ

 水銀玉みたいにころころ散らばる

 寒くて起きるのがほんとに嫌だ (『早春の朝』、p.44)」

100年ほども前に書かれた詩であるにもかかわらず、詩人が見た光景や温度が伝わってくるかのように感じる。言葉で記すことはときに視覚資料以上にくっきりと景色を見せてくれる。

 一方で、「僕には国も家もない(『カフェ・フランス』p.64)」といった一節には植民地を故郷とする人だけが抱く孤独が明瞭に現れている(当時の宗主国は当然、日本である。さらっと読み飛ばすわけにはいかない一節である)。詩人自身の思想や感覚の記録であると同時に、時代を書き留めるジャーナルとしての詩の力を感じる詩集だった。

 最後は朝鮮戦争の混乱のなか、京城(ソウル)から平壌に移ったまま行方不明になった。「越北作家」として、韓国では1988年まで作品が発禁となっていたそうだが、この辺りのことを知るためにも朝鮮半島の歴史を勉強し直したい。

 

●現代詩文庫15富岡多恵子詩集』思潮社

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 2023年もまた多くの偉大な作家や芸術家が去っていった。富岡多恵子は4月に他界している。1976年にアルバムを共作した坂本龍一のあとを追うようなタイミングであった。

 生活感のある素朴な言葉のなかに、グッとカメラをズームしたようなやたらと解像度の高い描写があったり、淡々とした風景のなかに突然鮮明なカラーを思わせるような表現が現れたり。独特のリズムをもった詩人であると感じた。「作品論」の章でも触れられているが、人称代名詞が非常に多彩なのもおもしろい。フェミニズム詩人であったということもあり、女性目線で女性の生を描写した作品が多い。

「あなたが紅茶をいれ

 わたしがパンをやくであろう

 そうしているうちに

 ときたま夕方はやく

 朱にそまる月の出などに気がついて

 ときたまとぶらうひとなどあっても

 もうそれっきりここにはきやしない(『水いらず』、pp.70-71)」

 THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの「世界の終わり」との奇妙な一致を感じる一節。チバユウスケが富岡作品を読んでいたかも、もはやもうわからない(たぶん読んでいなかったと思うが)。

2023 . Record & Live (総集編・7月〜12月)

 前回記事の後半。明らかに下半期は聴く&行くの頻度が下がったな…。まあこういうことは体力や他のやることなどとの兼ね合いもある。という言い訳を置いておきます。

 

●新譜 (2023〜)

1.When Horses Would Run – Being Dead

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・テキサスを拠点とする3人編成のポップ・ユニット。これがファースト・アルバムということになるみたい。

 #1「The Great American Picnic」では変拍子を駆使したリズムにバロック時代の宗教曲のような旋法が乗っかり、かなりミクスチャーな音楽性が早くも窺える。#2「Last Living Buffalo」では王道インディーポップ感のあるイントロとキャッチーなメロディラインで曲を進めつつ、2分ぐらい経ったところで突然の爆音ギター×絶叫パートが一瞬入り、ポスコア辺りも経由していることが察せられる。一方、#7「Treeland」などは全編をとおして聴きやすいポップロック

 ファーストかつインディーということもあり、アルバム全体の統一感というよりは自分たちのやりたいことをやれるだけ突っ込んでみた、という感じかもしれない。でも、その「節操なさ」がまったく不自然でなく、このバンドらしさにも繋がっているのがおもしろい。

 

2.Girl with Fish – feeble little horse

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アメリカの新しいバンドで、このアルバムで初めて知った。ちなみに本作はセカンドアルバム。なおペンシルベニア出身なので、テキサス拠点のBeing Deadとは見てきた風景も結構違うだろう。

 このバンドも癖が強く、1曲目(「Freak」)からブリッブリに歪んだ(というかもはや音が割れている)ギターが鳴り響き、そこにウィスパーな女声ヴォーカルが絡んでいくという流れ。ライヴとかでどうやってPA のバランス取ってるんだろう?

 フォークやガレージあたりの音楽をルーツにしているようで、ギターの使い方などはその辺りをリファレンスにしていそうだが、ヴォーカルの処理などは昨今のベッドルーム・ポップに近いような雰囲気もあって、現在のアメリカでのインディーオルタナの曲作りのメソッド(の一幕)が見えるようで興味深い。

 また本作はどの曲もタイトルがシンプル(大半が一単語で、英検3級が取れていればわかる単語だ)で、一曲一曲が短いのも特徴的だった。11曲で26分。この辺りはサブスク時代にフルアルバムを作るにあたっての戦略的なこともあるのだろうか。それとも単に短い曲を作るのが合っているのだろうか。

 

3.Sun Arcs – Blue Lake

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・山の中で目を閉じて聴きたい系の音楽。デンマークマルチプレイヤーによるプロジェクトだそう。

 ギターやストリングスを使ったシンプルに綺麗なナンバーもさることながら、民族楽器(ハープみたいな弦楽器だろうけど、楽器名がよくわからない)で音階をポロンポロン鳴らしている#2「Green-Yellow Field」、#7「Sun Arcs」あたりのザ・アンビエントな曲が印象的だった。

 このアルバムもタイトルがシンプルな曲が多い。

 

4.GUTS – Olivia Rodrigo

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Olivia Rodrigo、ファーストアルバムも好きだったけれどそこまではハマらなかった。しかし、このセカンドは結構ハマる予感がしている。

 #1「all-american bitch」のWeezerなどにも通じるインディーポップ・サウンドに早くも引き込まれる。リリックもパンチが効いている(もちろん文字通り読み取っていい類の詞ではないだろう)。#3「vampire」、#4「lacy」とアコースティックな曲が続いたあとに#5「ballad of a homeschooled girl」でまたギターロックに戻ってきたり、#8「get him back!」ではヒップホップ調のトラックが出てきたりと、1枚の中でけっこう幅広いサウンドスケープが聴けるが、これがとっちらからずにうまくまとまり、アルバムにとって良い方向に作用しているのはすごいと思う。

 とにかくポップでメロディアスな部分に惹かれて本作を聴いていたが、海外レビューや英語話者のコメントを見ているとリリックを高く評価する声が多い。この辺りもいずれじっくり読んでから聴き直してみたいと思う。

 

5.Haunted Mountain – Buck Meek

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・Big Thiefのギタリストでありコンポーザーの(そしてエイドリアン・レンカーの元パートナーである)バック・ミークのソロアルバム。Big Thiefがカントリーを基調にしながらも、どこかポストロック然としたある種の難解さを湛えているのに比べると、こちらはわりとキャッチーさが引き立つサウンドになっている印象がある。歌詞も情景や心象風景をよりイメージしやすい感がある。

 #4「Cyclades」、歪みを効かせたギターのバッキングが素朴ながらもノスタルジックでハマる。続く#5「Secret Side」のメロウな音像と暗めのリリックも良い。ちょっとTRAVISのようなウェットさも感じる。裏声の使い方はBig Thiefでエイドリアンがやっているそれに近い雰囲気を感じるが、どうか。

 全編を通して、どこか線の細いヴォーカルと奇を衒ったところのないギター、たまに入ってくる若干ピッチの甘いピアノなどが相まってまさしくカントリーな、(もちろん意図的にだろうが)どこか垢抜けない空気感を醸し出している。日常の中でふっと肩の力を抜きたいとき、味方になってくれそうなアルバム。

 

6.The Window – Ratboys

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・シカゴ出身のロックバンド、Ratboysの3rdアルバム。Death Cab For Cutieのクリス・ウォラがプロデュースとミックスを担当したとのこと。デスキャブ、高校生のころ聴いてたな。

 全体を通してギターをジャキジャキ鳴らすロックサウンドが印象的で、個人的にはテンションが上がった。ただ、明るいサウンドと対照的にリリックはけっこうシリアスだったりする(それもまたひとつのインディーロックらしさであるとも思う)。Wikipedia情報になってしまうが、アルバムタイトルのThe Windowとは、ヴォーカルのJuliaとその家族がCOVID-19流行に際して経験したことがベースになっているとのこと。音楽的な面ではトラッドなロックを鳴らしつつも(個人的には聴いていてビートルズや同時代のロックバンドを連想したぐらいだ)、背景にはまごうことなく「現在」が据えられている。

 好きな曲は#2「Morning Zoo」、#7「Empty」あたり。#2はカントリー風のフィドルと、内省的なリリックがツボ。#7も2コードで進むシンプルな曲構成と、どこか後ろ暗い雰囲気の詞世界との絶妙な絡み合いが好きである。

 

7.1STSET – TESTSET

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・7月には既にリリースされていた本作を今更聴き、フジロックでアクトを観られなかったことを非常に残念に思っているところ。メチャクチャかっこいいです。

 今年1月に急逝した高橋幸宏氏のプロジェクトであったMETAFIVEを母体とするユニットで、幸宏氏のレガシーとも言うこともできるのだろう。しかし、その経緯を知らずにひとつの新バンドとしてTESTSETを聴いたとしても、自分はきっとこれに惹かれていただろうと思える。

 テクノ〜クラブミュージックの質感をキープしながら、ギターやアクティヴなヴォーカルで人間味(と言っていいのだろうか)をしっかりと出していく感じ、改めて好きだなあと実感する。DJでかかっていても、ステージで演奏されていても双方違和感がない。

 #2「Moneyman」をはじめ、超キャッチーで踊れる曲が揃っている一方、#9「Stranger」のように浮遊感のあるメロと重目のリズムで言葉を聴かせる曲もあり。次回どこかでライヴを観られる機会があれば逃さないようにしたいところ。

 

8.Steppin’ Out – KIRINJI

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・前作『crepuscular』からもう2年経つのかあ、と驚きながら聴いたKIRINJIの新譜。感染症禍の影もあってか、どこか仄暗い雰囲気のあった前作に比べ、ポジティヴなムードを明確に感じる。同時に、時代の趨勢をしっかり掬い取るサウンドと歌詞世界は健在。

 兄体制以降のダンサブルなソウル・サウンドはそのままに、シンセ・打ち込み系の音とアコースティックなサウンドがほどよいバランスで共存しているのが特徴的(#9「Rainy Runway」など)。意外とここまで違和感なく溶け込んでいるのもないんじゃないだろうか。

 トレンドワードをストレートに拾ってリリックに昇華するテクニックも健在で、#3「指先ひとつで」では指ハートを前向きな気分のトリガーとして描き出し、#4「説得」では「論破は論外」と某コメンテーター的コミュニケーションにNoを突きつける。言葉の持つ力を(良い力も、悪い力も)信じているからこそ出てくる表現のようにも思える。

 個人的には、本作のクライマックスは#7「I♡歌舞伎町」であるように思う。少し不穏なイントロからメロウなヴァースに流れ込み、歌われる新宿の情景。『cherish』収録の「『あの娘は誰?』とか言わせたい」のアナザーストーリー感もある。ここ数年のKIRINJIの「視点」が凝縮された5分間。

 

9.The Land Is Inhospitable and So Are We - Mitski

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・日本をルーツにもつアメリカのSSW、Mitsuki“Mitski”Miyawakiの7thアルバム。2013年から活動していて7枚目なのでかなりコンスタントに出しているのでは? と思ったが、2018年まで年1ペースで出しており、そこから4年空いて6thの『Laurel Hell』が出ている。この『Laurel Hell』が比較的シリアスな色調だったのに比べると(好きですが)、今作はメロディアスかつゴージャスな音像が印象に残る。なんとなく、やはり感染症禍のピークに制作されたアルバムは内省的な雰囲気が強くなるのだろうか。

 #1「Bug Like an Angel」ではベーシックなアコギ弾き語りを中心に、時折重厚なコーラスが入る。そこから#2でトラックが少し増え、#3「Heaven」ではオケが参加している。ゆったりとした譜割りのヴォーカルとストリングスのサウンドが組み合わさって、どこか古い映画のサウンドトラックを思わせる。#7「My Love Mine All Mine」もコーラス隊が印象的な楽曲で、敢えて使っているであろうクリシェ的なコード進行がノスタルジック雰囲気をつくっている。いろいろな面でトラッドな音楽へのリスペクトを感じるつくりだった。

 今作に限らないが、Mitskiのアルバムは約30分前後とコンパクトに収まっているものが多い。ライヴとかだと何曲ぐらいやるんだろう。

 

10.Everything is alive – Slowdive

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Slowdiveというバンドにはもともとそれほど詳しいわけではなかった。いわゆるシューゲイザーの雄として、シンセも交えつつも飽くまでバンドサウンドでもってフィジカルな音を鳴らす人々、という印象をもっていた。それも間違いではないのだろうが、今年のフジロックでは意外にエレクトロニックな音を出していて意外に思ったのを覚えている。

 本作もどちらかというとエレクトロニクスの印象が強く、それゆえか、よりトランシーな雰囲気も多く感じる。歌詞も短文が組み合わさったシンプルなものが多く、現代詩、ないしこう言ってよければ俳句のような質感すら感じる。

 #1「shanty」はBmを基調とするアルペジオフレーズを鳴らし続ける打ち込みをバックに分厚い楽器陣が重なり、どこか遠くから聴こえるようなヴォーカルがそこに加わる。音像的には5分間大きな変化がないにもかかわらず、いつまでも聴いていられそうな没入感がある。と思えば、#3「alife」のようなポップさを備えた聴きやすい楽曲もある。#7「chained to a cloud」の打ち込みなどは昔やったゲームのBGMのようで、一抹の懐かしさもある。Slowdive=ゆっくりと潜る、というバンド名をそのまま体験しているような時間だった。

 

11.Almost there – GRAPEVINE

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GRAPEVINEはアルバム毎に新しい風景を見せてくれるバンドで、今回も先行シングル群を聴いた段階から非常に楽しみにしていた。

 #1「Ub(You bet on it)」では、自由度が高く、言ってみればあえて隙を多く残したところから一気にソリッドなロックサウンドに持ち込む流れが気持ちいい。「豚の皿」などもそういう構成だと思うが、このバンドの得意技といっても良さそうだ。#4「Ready to get started?」、久しぶりにコピーバンドなどしたくなるようなストレートな楽曲。この曲はベースよりギター弾きたいな。#5「実はもう熟れ」は一転してR&B・ソウルテイストの曲。シンセが主導権を握ってミニマルなトラックが鳴るが、それゆえにヴォーカルラインの豊かさとコーラスの美しさが際立つ。終曲#11「SEX」では、さまざまな読み方ができそうなリリックがトリッキーなリズムの上に乗る。SEXという概念について歌った楽曲とも言えそう。

 音楽的には引き続き幅広いエッセンスを取り入れていて、時に煙に巻くように、時に近すぎるほど近づいてきたりして、多様な面を見ることができる。一方で楽曲のメッセージ性という意味では他のアルバムと比較してわりあい直截的であるように思う。その対比が面白い。

 

12.Abandon All Hope – Ethan P. Flynn

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・自動車のハンドルを握って絶望的な顔をしている男が描かれたジャケットと、それをそのまま表現したようなアルバムタイトルが衝撃的な作品。ギター・ベース・ドラムを主体としたバンドサウンドでキャッチーさを担保しつつ、タイトルトラックである#2「Abandon All Hope」では「煉獄の様な時代だからとびっきりヘビーで不穏なギターを鳴らしたかった」として、実際に歪みの効いたギターが鳴っている。

 ポップな音像にさまざまな悩みや閉塞感(ソーシャルなものも、パーソナルなものも)を乗せて歌うという作り方にはUKオルタナのひとつの伝統のようなものも感じる。感じつつ、フックのつけ方にはクラブミュージックのようなノリも垣間見える。

 #4「No Shadow」も好き。No Shadow、というのも独特の英語表現だと思う(影がない=実体がない、地に足がついていない不安な気持ちと捉えればよいだろうか。OasisにもCast No Shadowという曲があったな)。“Where did you go?”というリフレインがあるのだが、1番と2番でコーラスとメインヴォーカルが入れ替わるのが印象的。

 

13.Javelin – Sufjan Stevens

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アメリカのソングライター・Sufjan Stevensの10枚目のアルバム。今作は大半を宅録で制作したという。

 #1「Goodbye Evergreen」から、穏やかに、柔らかに始まっていく。歌詞は別離とそれに対する祈りを思わせるもの(実際に、本作は今年4月に他界したSufjanのパートナー・Evans Richardsonに捧げられており、「喪の仕事」としての側面をもつ作品でもある)。

 全体的にピアノやアコギをフィーチャーした手触りのあるサウンドにハスキーなヴォーカルが乗り、聴きやすい。個人的には#4「Everything That Rises」から#5「Genuflecting Ghost」の流れが好き。

 

14.Lucky for You – Bully

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・パンキッシュなギターサウンドが気持ちいい1枚。パンクもそうだが、グランジが根底にあるサウンドで、奇を衒いはせずとも歪み一発に対する強いこだわりは感じる。そういえば、今年はいつになくNIRVANAもよく聴いていたような。

 楽曲自体も短くシンプルなものが多く、10曲で32分というコンパクトなサイズにはなっている。一方で聴き応えはしっかりある。

 ど頭(#1「All I Do」)とラスト(#10 All This Noise)がかなり好きだが、Soccer Mommyとのデュオ曲である#8「Lose You」も独特の雰囲気を放っていてよい。

 

15.Multitudes – Feist

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Feist、かなり長く活動している人なのに最近まで知らず、人に教えてもらって聴いてみた。

 良い。好き。#1「In Lightning」は民族音楽風のタムのビートに厚いコーラスが乗ったイントロが印象的で、オリエンタルな雰囲気をもっている。とはいえ、2曲目以降は比較的ベーシックな弾き語りメインの楽曲が多くなっていく。

 リリックについては言語の壁もあって読解に十分な自信がないが、音像としてはアルバム全体に壮大な物語を据えているわけではなさそうだ。それぞれに素朴な聴きやすさを湛えた楽曲の集まりという感じがある。それは決してネガティヴな意味を持たず、ある意味本作のタイトルである『Multitudes』という概念を体現しているようでもある。既にベテランといってよいキャリアをもつシンガーだが、今後じっくり聴いていきたい。

 #5「The Redwing」、#7「Of Womankind」、特に惹かれる。

 

 

●旧譜 (〜2022)

1.わたしの好きなわらべうた – 寺尾紗穂

・ポップスと民謡の関係性、みたいな話を人としていてふと思い出したアルバム。全国各地の童歌(わらべうた)を、寺尾さんがさまざまなジャンルにアレンジしている。

 日本の音階でできている童歌に西洋音楽の和声やリズムを乗せる、というトライアルが驚くべき完成度で果たされている。と同時に、そうした「異国」のアレンジに十分耐えうるどころか、それらと組み合わさることで新たな存在感を示す日本の童歌の“強度”も凄まじい。各曲の末尾には具体的な地名が記されており、これらの歌は実際にご本人が取材して採譜したものらしい(流石……)。

 ファーストトラックである#1「新潟 風の歌「風の三郎〜風の神様」」、ジャズアレンジの#7「茨城 七草の歌「七草なつな」」が好き。茨城は一応地元だが初めて聴いた。水戸とはちょっと別のエリアの歌のようなのでさもありなん。

 

2.Legend - Bob Merley & The Wailers

・日ごろ日本やアジアのポップスを聴いてレゲエがどうだのダブがどうだの、と言っているわりには本場ジャマイカのレゲエをきちんと聴いたことがなく、それはいかがなもんかということでボブ・マーリーを聴きなおしている。まずベスト盤から……。

 #1「Is This Love」のド頭からあの「カラララン」というサスティンの長いスネアのフレーズが入り、これこれェ、という気分になる。しかし、聴いていくほどに彼の音楽は非常に繊細で、緻密に作られたものであることが再認識できる。実際、先述の特徴的なドラムサウンドやブリっとしたベースなどをうまいことミックスするのは難しそうだ。

 なんとなく楽曲の形式的な部分だけが浚われて言及されることの多いジャンルであるように思うので、ときどきこうして原点となるアーティストを聴くのは大事だな、と改めて思うなど。

 

3.6th Saturday – JUNGWOO

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・一時期、韓国や台湾などの東アジアのポップスをよく聴いていたのだが、最近は韓国文学に関心があることもあって韓国ポップスを再度探している。Se So Neon、ADOYの関連アーティストをディグっているうちに辿りついたアルバム。

 「Jungwoo singer」で検索すると韓国インディーまとめサイトみたいなのが出てくるが、それ以上の詳細な情報はあまり出てこない(英語で調べているからだろう。ちなみに日本語の情報は自分の知る限りほぼゼロ)。Youtubeで調べると結構最近のライヴ映像が出てくるので、精力的に活動しているっぽい。

 弾き語りをメインの形態として活動しているようで、本作もアコギとヴォーカルのシンプルな構成をベースに、必要最低限のリズムセクションやウワモノが時々加わるといった趣。

 #2「From Me To You」や#5「Trashed」のような素朴なインディーフォークは天気のいい日に聴きたいし、しっとりバラードの#6「Wish」は夜が似合う。なかでも好きな楽曲は#8「Fall Dance」。マイナーキーのアルペジオに溜息のようなヴォーカルが乗り、リリックの意味は通じずとも何か深い別離を思わせる(Google先生の力を借りて翻訳してみると、本当にそういう内容だった)。ハングルの美しい発音が味わえる楽曲でもある。

 

4.Love Me / Love Me Not – HONNE

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・はからずもAnna of the North繋がりみたいになったが、サマソニでHONNEを観て以来久しぶりに聴きたくなり、暫く聴いていたアルバム(Anna of the Northは#5「Feels So Good」でヴォーカルをとっている)。

 すごくいいジャケットだな、と思う。二面性をテーマにしたアルバムの表紙を、鏡越しにこちらを見つめる人物で表現する。明らかにアジア人の特徴をもった人物として描かれているが、"HONNE"の由来が日本語の「本音」であることも踏まえると納得がいく。

 #1「I Might」のようなポジティヴな曲と#3「Day 1」のような少しブルーな曲が交互に登場し、またfeat.が比較的多いアルバムであるにもかかわらずとっ散らかった印象がないのは、HONNEのソングライティングにおけるディレクション/プロデュース力の賜物だろうか。

 正直、このアルバムが出たときはそこまでエレクトロニックやクラブミュージックへの関心も薄く、ほとんど聞き流していた。改めてサマソニのアクトを観てすごく良いなぁとなり、今作を聴き直す機会ができたことは素直に嬉しく思った。

 

5.Float Back To You – Holy Hive

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・ドラムの音が好き。

 

 

●Live

8/27 “avissiniyon“ @下北沢440

・uamiさんと君島大空さんのユニット、avissiniyonの東京公演。お二人の拠点が離れているということもあって1年に2回ぐらいしかライヴをやらないらしいので、今回は非常に貴重な機会。

 avissiniyonとしての作品はそう多くないようで、お互いのソロ作品や他アーティストのカヴァーの比重が多く、新鮮な楽しみのあるライヴだった。セッションのようなスタートからだんだん楽曲の輪郭がはっきりしていき、「あ、あの曲だ!」となる瞬間にのみ得られる心の滋養がある。

 uami「弾けて」、君島大空「扉の夏」のavissiniyonバージョン、細井徳太郎「エンガワ」、東京事変「御祭騒ぎ」、そしてアンコールのキリンジ「エイリアンズ」。他にも書き出したらキリがないが、恐らく音源化はされないであろうカヴァーの数々、できるだけ記憶に残しておきたい。いい夏の終わりだった。

 

9/17 “孤独の倍奏 第壱宵“ @荻窪 Velvet Sun

・LAIKA DAY DREAMのLeeさんが企画する「孤独の倍奏」の第一回(第壱宵)。「孤独の倍奏」という企画名にはバンドでなく弾き語りの形で(孤独)、しかしゲストミュージシャンと2人で(“倍”奏)という意味合いがあるよう。今回のゲストアクトはpaioniaの高橋さん。

 LAIKAもpaioniaもワンマンに行ったことがある(し今後また行きたいと思っている)ぐらいには大好きなバンドであり、今回のイベントも言わずもがな楽しみにしていた。そして、この企画の記念すべき初回に居合わせることができたことも非常に嬉しく思う。

 弾き語りやアコースティックセットの魅力は一言では言い表しにくいが、音源やバンドのライヴで親しんできた楽曲を「いつもと違う」サウンドで聴くことができることが第一にあり、故にリリックのきこえ方が違ったり、今まで気づかなかったコードのギミックに気づけたりといったことが挙げられると思う。それらをLAIKAやpaioniaの楽曲で一夜にして体験できるという、非常に贅沢な夜だった。

 

10/1 “Books & Something LIVE @新代田 FEVER

・10月のライヴだったけれど、週末だったし載せちゃう。FEVERでは、一昨年あたりから独立系出版社・書店のイベント「Books & Somethings」が開催されているのだが、それに合わせて開催されるライヴに柴田聡子さんとキセルのお2人(とキーボード野村卓史さん)が出演。1週間に2回柴田さんを観ている。

 柴田さんは今回弾き語り。バンドとは違う形で名曲たちを味わう。弾き語りで聴くときは「雑感」が特に好きだ。新曲「Synergy」のアコギVerも良かった。最近は文章に関する本をよく読んでいるらしい。

 キセルは昨年、吉祥寺でワンマンを観て以来か。イベント名に触れて「ぼくらはSomethingのほうですかね」とボケてひと笑いをとるなど、ユルい雰囲気をキープしながらもプレイはタイト。友晴氏のオリジナル楽器も例によっていろいろ聴くことができた。

 

10/14 ずっと真夜中でいいのに。原始五年巡回公演 喫茶・愛のペガサス @水戸市民会館 グロービスホール

・生まれ故郷の水戸で、東京に移ってから知ったユニットのライヴを観る。ちょっと不思議な気分だった。ライヴはもう言わずもがなよかった。茨城は初上陸だったそう。うれしい(オタク)。

今年はフェス入れると4回ずとまよ観ましたかね。サマソニでの完全にゾーンに入ったアレンジ満載のアクトも忘れがたいが、やはり単独ツアーの演出は毎回おもしろくて驚かされる。

 

11/6 FRUE Presents Tim Bernardes / Shintaro Sakamoto @WWW X

・盛大に仕事が長引いてしまい坂本さんは全く観られず、Tim Bernardesも途中からの観覧になってしまったが、それでも非常に印象的なライヴだった。サポートメンバーを入れない完全ソロでの演奏だったが、アコギ、エレキ、ピアノを駆使して豊かな音楽世界を繰り広げていた。端的に言って強い。特に歪んだエレキで弾き語りをするという難易度の高い(と勝手に思っている)パフォーマンスをモノにしていてすごかった。

歌はブラジル・ポルトガル語でMCは英語と、(南米では結構多いのかもしれないが)2カ国語を自由に切り替えていたところにもなんだか感じ入ってしまった。

 

12/7 betcover!! uma tour 2023@CLUB CITTA

・この1〜2年で一気に存在感を増した感のあるbetcover!!。2021年ごろから折に触れてライヴを見ているのだが、静かな狂気を孕んだ音像を保ちつつ演奏はどんどん洗練されていっている印象がある。テクニック的にはもちろん難しいが、メロディやコード進行自体はキャッチーというか歌謡曲的なポップさを常に確保していて、その辺に「正気」を残しつつぶっ飛んだライヴをしているのがすごい。

 「母船」が早くもアンセム化していて、イントロが始まると同時に歓声が上がっていたのがアツかった。