台湾

に行きたいわん(っていう歌詞の曲があるんです、後ほどきちんと紹介します)。この数日、台湾のカルチャーに興味津津である。

 

先日、知人の出演するライブを聴きに青山・外苑前のライブハウスに足を運んだ。

ホーンを載せた大所帯のバンドが叩き出すハイクオリティなソウルミュージックを聴きながら、

ふとPAブースの隣のレコメンドコーナーが気になった。並んでいるレコードのタイトルはどれも漢字。それでいてジャケットは極彩色、ポップで可愛い。

どうやら台湾のインディー・ポップの特集をやっているらしい。私はそれを一通りメモり、自宅に帰ってApple Musicで検索してみたらあなた聴いてよこれほんと素敵ですよ

わざとちょっとだけ粗い音質で録音する所謂ローファイ・サウンドビートルズビー・ジーズ(ややこしいね)を思わせるコーラスワークがぴったりツボにはまった。

初めて聴く曲のはずなのに、どこか懐かしい感じがしません?コード遣いと音質のせいかしら。小さい頃に親の運転する車の中で聴いたカセット・テープを思い出す。

 

台湾文化、音楽だけではなく文芸も魅力的だ。日本でも(比較的)著名な呉明益氏の作品、先日私も手に入れた。

舞台は1980年初頭、今はなき中華商場という物売りの集まる場所。1996年生まれの日本人である私にとって本来縁もユカリもない環境だ。

しかし。この短編集もまた、どこか「懐かしさ」を感じさせるのである。

先ほどのレコードははじめて聴く新しい曲なのに、この本は今はない古い場所の話なのに、どちらも「懐かし」い。なんだろこれ。

 

マジックはただのマジック、本当の魔法は入ってないって思い知ったのに、おかしなもので、拍手喝采を浴びる魔術師を見ていると、なぜかあの、騙されたと知ったときの心のもやもやが消えてしまうのだ。

(呉明益『歩道橋の魔術師』p.12)

 

最初、フェイスブックでメッセージを受け取ったとき、適当な理由で断ってしまおうと、トムは考えた。でもその日、たまたまJ・M・クッツェーの小説を読んだあとで、夜市の壜倒しで獲った安いワインを飲んでいたし、気持ちがちょっと高ぶっていた。それに、昔のことをいろいろ思い出したこともあり、やっぱり彼らと会うことに決めた。

(呉明益『歩道橋の魔術師』、p.25)

ある種の優れた文学作品は、読み手に「追体験」をさせるという。そのときに作品の舞台となる場所や時代はあまり関係ない。

『歩道橋の魔術師』という作品が僕の手を引いて、擬似的な時空間の移動を促しているのだと考えたらいい。私はあたかも「1980年代初頭」の「中華商場」に立っている錯覚に陥入る。そこへ、(上に引用したような)登場人物の感情表現が追い打ちをかける。

優れた文体の持つ引力と、そこで展開される感情表現への共感。私の抱いた懐かしさ、その理由を無理やり説明するとしたらこんな感じだろうか。

 

忘れたくないのは、ここでいう共感とは、安易な普遍化や「ワカッタツモリ」によってもたらされるものではないということ。

『歩道橋の魔術師』はミクロな生の記録だ。台湾についての統計資料やWikipediaを読んだって、どこを見ても載っていないことが書いてある。本当だったら他の誰とも似ていない誰かの人生の描写。

だからこそ、そのなかに自分と似た心の動きが出てくると昂るし、そのことを書き留めておきたいと(少なくとも私は)思う。

 

まあそれはそれとして、いつかは本当に行ってみ台湾。