という文字列を見ても「そうかぁ」としか思わなくなってしまった。
大学生の頃はわりとしっかり煙草を喫っていて、カフェなんかでも喫煙席を選んでいたし、全面禁煙などと言われると「まじかぁ」と思っていた(まあ禁煙化の流れは今に始まったわけではないけれど)。
今は、完全にやめたかというとそうではないけれど、でも全然喫わなくなってしまった。特に深い理由ではない。単に生活圏に丁度いい喫煙所がなくなってしまったからである。
(((逆に大学の喫煙所というのは結構すごくて、サークルも学年も違う人とそこでよく顔を合わせるというだけで飲みに行くぐらいの仲になるなんてこと、わりとあった。煙草を喫っていていいことなんて基本的にはないけれど、ああいうゆるやかな人間関係はなかなか否定しがたいものがある)))
ところで所謂「嫌煙」という立場の人、いるじゃないですか。あれって、意外と多いのが「禁煙に成功した元スモーカー」なんだそうである。
なんでなんでしょうね。煙草がやめられない人の気持ち、いちばんわかってるはずじゃん。なんてことを考えながら本を読んでいたら、おっ、という一文に出会った。
「みちるちゃんはねえ」というのが、みちるちゃんの口ぐせだった。小学4年生なのに彼女の一人称は自分の名前で、わたしはそれが嫌いだった。
当時のわたしが子どもなりに克服したと思っていた幼さを堂々とぶら下げて接してくる態度が不愉快だった。
―品田遊『名称未設定ファイル』より「みちるちゃんの呪い」、p.114
ちゃんと読むとかなりデリケートな内容を扱った作品なんだけど、まあそれはおいておいて、私はこれ相当しっくりきてしまった。わかるぅ〜という感じ。
私は「短気さ」については、完全にこれだ。今でも別に気が長い方ではないけれど、昔は本当にちょっとしたことで苛々することが多く、それで損もしていた。色々と人付き合いをしていく中で、苛々をグッと抑えたり、他のものに昇華したり(カラオケ行くとかさ)する術を得て、短気さを「克服したと思っていた」。
で、今。今度は誰かのふとした短気さが妙に気になるようになってしまった。ちょっと靴が当たったぐらいで舌打ちすんなよとかPASMOのチャージ一発でイラつくなよとか。こうして書いてみるとなんだか「オイラ周りを冷静に見れてますよ」感満載のイヤな奴だし、第一自分の短気さも克服できてないんだけど、
でも案外気がつくとそうなっているのだ。
煙草についてもこういう感情、結構あるんじゃないだろうか。自分が死ぬ気でやめたもの、そこへの依存を「堂々とぶら下げて」いる人間に、我慢ならないのではなかろうか。
何かを克服するというのは、その「何か」と未だ付き合い続けている人への共感には必ずしも繋がらないようである。